第103話 私はこのような人間です
次の休日。
本子は両親とともに、市之瀬家の屋敷を訪れていた。
門をくぐった先には、広い庭が広がっている。
綺麗に整えられた植木。
石畳の小道。
その奥に建つ屋敷は、昔ながらの重厚さを残しながらも、どこか現代的な造りだった。
「大きい……」
本子は思わず呟いた。
玄関へ入ると。
広い廊下の壁には、いくつもの絵画が飾られている。
台の上には、見たことのない彫刻。
窓辺には、繊細な模様が刻まれた硝子細工。
どれも高価そうに見えて。
本子は自然と歩幅を小さくした。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
出迎えた文乃が、穏やかに微笑む。
「壊れやすいものは、手の届かない場所へ置いておりますから」
「顔に出てました?」
「少しだけ」
本子は恥ずかしそうに頬をかいた。
「すみません。どれも高そうで」
「値段を気にして見るより、好きか嫌いかで見てくださった方が、作品も喜ぶと思います」
「作品も喜ぶんですか?」
「少なくとも、私はそう思っています」
文乃の言葉に。
本子の緊張が、少しだけ和らいだ。
◇
両親同士が応接室で話を始めると。
匠は本子を屋敷の奥へ案内した。
「こちらです」
扉を開く。
そこには、大きな黒いピアノが置かれていた。
壁際には楽譜が並び。
窓から差し込む柔らかな光が、磨かれた鍵盤を照らしている。
「ピアノも弾くんですか?」
「幼い頃から習っています」
「お医者さんで、美術にも詳しくて、ピアノまで弾けるんですか?」
「並べられると、少し恥ずかしいですね」
匠は困ったように笑った。
「母の影響です」
「幼い頃から、美術館や演奏会へ連れていかれました」
「嫌じゃなかったんですか?」
「最初は、長く座っているのが苦痛でした」
「市之瀬さんにも、そういう時期があったんですね」
「僕も普通の子供でしたから」
本子は少し意外に思った。
匠は最初から何でも理解し。
静かに芸術を楽しんでいたように見えていた。
「鬼灯さん」
「はい」
匠はピアノの前へ立ち、静かに鍵盤へ手を置く。
「医学や芸術の話だけでは」
「僕がどのような人間なのか、十分には伝わらないでしょう」
本子は匠を見る。
「ですから」
匠は穏やかに微笑んだ。
「一曲、聴いていただけますか?」
「もちろんです」
◇
匠が椅子へ腰掛ける。
背筋を伸ばし。
鍵盤の上へ、そっと指を置いた。
最初の音が響く。
静かで。
柔らかな音だった。
一つの音に、次の音が重なる。
穏やかな旋律が、部屋の中へ広がっていく。
本子には、曲の名前も。
どのような技法が使われているのかも分からない。
けれど。
聞いているだけで、心が落ち着いた。
匠の表情は、いつもと少し違っていた。
医師の仕事を語る時の、真剣な顔でもない。
美術について説明する時の、知的な顔とも違う。
ただ。
純粋に音楽を楽しんでいた。
鍵盤の上を滑る指。
小さく揺れる肩。
次の音を待つような、僅かな呼吸。
言葉では見えなかった匠の感情が。
音になって伝わってくるようだった。
本子は瞬きも忘れ。
子供のように目を輝かせながら、その演奏を聴いていた。
やがて。
最後の音が、静かに消えていく。
部屋に余韻だけが残った。
「すごかったです!」
本子は思わず声を上げた。
匠が振り返る。
「ありがとうございます」
「本当に、すごく、すごかったです!」
「もう少し具体的な感想はありますか?」
本子は真剣に考える。
「……ピアノが、すごく上手でした!」
一瞬。
匠は何も言わなかった。
それから。
堪えきれないように笑い出した。
「ふふっ」
「何で笑うんですか?」
「申し訳ありません」
匠は口元を押さえる。
「想像していた以上に、素直な感想でしたので」
「だって、音楽のことは分からないですし」
「でも、すごかったのは本当です」
「退屈もしませんでした」
「ずっと聴いていたいと思いました」
取り繕うこともなく。
難しい言葉で飾ることもない。
本子は、自分が感じたことをそのまま伝えている。
そんな本子の表情を見ながら。
匠は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
「それなら」
匠は穏やかに微笑む。
「弾いた甲斐がありました」
◇
「音楽は、言葉にしにくいことを伝えられると思っています」
匠はピアノの蓋を静かに閉じた。
「嬉しい時も」
「不安な時も」
「疲れた時も」
「同じ曲を弾いても、音は少しずつ変わります」
「さっきの曲は、どんな気持ちだったんですか?」
本子が尋ねる。
匠は少し考える。
「難しい質問ですね」
「市之瀬さんが言ったんですよ?」
「そうでした」
匠は小さく笑う。
「今日は」
再び鍵盤へ目を向ける。
「聴いてくださる方に、楽しんでいただきたいと思っていました」
「では、成功ですね」
「そうでしょうか」
「はい。すごく楽しかったです」
本子が笑うと。
匠も、静かに笑った。
美術館で見た時よりも。
少しだけ近い笑顔だった。
◇
その後も。
匠は本子へ、好きな曲や。
子供の頃に何度も練習させられた曲。
医師になってから、疲れた夜に弾く曲について話してくれた。
話を聞きながら。
本子は、ふと考える。
市之瀬匠と結婚したら。
どのような生活になるのだろう。
きっと。
自分の知らない世界を、たくさん教えてもらえる。
美術。
音楽。
医学。
今まで知らなかった考え方。
落ち着いていて。
知識が豊富で。
自分の仕事へ誇りを持っている。
無理に何かを押しつけることもなく。
本子の言葉を、最後まで聞いてくれる。
きっと。
穏やかで。
豊かな人生になるのだろう。
条件だけを見れば。
申し分のない相手だった。
匠のことを。
もっと知りたいとも思う。
それは嘘ではない。
けれど。
もう一度。
匠が鍵盤へ指を置き。
柔らかな音が部屋に響いた時。
本子の頭に浮かんだのは。
(縁之丞にも、一度聴かせてあげたいな)
幼い頃から。
何かを見つけるたびに。
最初に伝えたいと思ってきた相手だった。




