第104話 水族館
次の休日。
本子は市之瀬匠と二人で、水族館を訪れていた。
駅から少し離れた海沿いに建つ、大きな水族館。
休日ということもあり。
館内は家族連れや、若い男女で賑わっている。
「水族館は、お好きですか?」
入口で案内冊子を受け取りながら、匠が尋ねる。
「好きです」
本子は頷いた。
「詳しくはないですけど」
「今日は楽しめれば、それで十分です」
「市之瀬さんは詳しいんですか?」
「魚そのものより、水槽の設備に興味があります」
「そっちなんですか?」
「少し変わっていますか?」
「ちょっとだけ」
匠が穏やかに笑う。
本子もつられて笑いながら、最初の展示室へ足を踏み入れた。
◇
通路の両側には、大小さまざまな水槽が並んでいた。
色鮮やかな小魚。
岩陰に身を隠す魚。
水底でほとんど動かない、不思議な形の生き物。
本子が水槽へ顔を近づける。
「この魚、ずっと同じところにいますね」
「流れの弱い場所を選んでいるのでしょう」
「水槽の中にも、流れってあるんですか?」
「ありますよ」
匠は水槽の上部を指す。
「この水槽は、水の流れを何層にも分けているんです」
「魚が疲れないためですか?」
「それもあります」
匠は本子にも見えるよう、少し身を屈めた。
「種類によって、好む水の流れが違いますから」
「速い流れを好む魚もいれば、流れの穏やかな場所で過ごす魚もいます」
「同じ水槽の中でも、それぞれが過ごしやすい場所を選べるように作られているんです」
本子は改めて水槽を見つめる。
ただ水が入っているだけに見えた。
けれど。
よく見れば。
水草が大きく揺れている場所と。
ほとんど動いていない場所がある。
「本当だ」
「場所によって全然違いますね」
「ええ」
「魚を入れるだけでは、水族館にはなりません」
「その生き物が、できる限り自然に近い状態で暮らせる環境を作る必要があります」
「お医者さんと似てますね」
匠が少し目を見開く。
「どの辺りがですか?」
「相手に合わせるところです」
本子は水槽を見ながら答える。
「同じ魚だからって、全部同じ流れでいいわけじゃないんでしょう?」
「人も、全員同じ治し方じゃないんですよね?」
匠はしばらく本子を見つめた後。
嬉しそうに微笑んだ。
「そのとおりです」
「鬼灯さんは、とても良い見方をされますね」
「そうですか?」
「ええ」
褒められた本子は、少し照れくさくなった。
◇
匠は、どの展示を見ても。
本子が尋ねたことへ、丁寧に答えてくれた。
魚が群れで泳ぐ理由。
深海魚の身体が独特な形をしている理由。
暗い水槽の中で、生き物を観察できる照明の工夫。
難しい話も。
本子が分からない顔をすれば。
すぐに言葉を変えて説明してくれる。
「この魚、何でこんなに平たいんですか?」
「海底へ身体を隠しやすくするためです」
「最初から、両方の目が上にあるんですか?」
「生まれた時は、普通の魚と同じように左右にあります」
「成長すると、片方の目が反対側へ移動するんです」
本子は驚いて魚を見る。
「目って移動するんですか?」
「します」
「怖くないですか?」
「魚にとっては必要な変化ですから」
「でも、朝起きて目が移動してたら怖いですよ」
「人間でしたら、すぐに病院へ行ってください」
「市之瀬さんが診てくれます?」
「外科の担当領域でしたら」
「そこは何とかしてくださいよ」
匠が小さく笑う。
本子も笑った。
どんな疑問を口にしても。
匠は馬鹿にしない。
幼稚だと笑うこともない。
本子が理解できるまで、真面目に答えてくれる。
この人と一緒なら。
自分の知らないものを、これからもたくさん見せてもらえるのだろう。
ただ知識を教えてもらうだけではない。
本子が何を感じ。
何を疑問に思ったのか。
それを大切にしてくれる。
尊敬できる相手として。
隣を歩いていける。
そんな未来を。
本子は自然と思い描くことができた。
◇
二人は館内の奥にある、大水槽へたどり着いた。
天井近くまで続く、巨大な水槽。
青い水の中を。
無数の魚が泳いでいる。
小さな魚の群れが、一つの生き物のように形を変え。
その横を、大きな魚がゆっくりと通り過ぎていく。
本子は思わず足を止めた。
「すごい……」
「見事ですね」
匠も隣へ立つ。
「群れで泳ぐ魚は、周囲の個体の動きを見ながら進む方向を変えています」
「誰かが命令してるわけじゃないんですか?」
「ええ」
「一匹一匹が、近くの魚へ合わせて動いているんです」
「それだけで、あんなに綺麗に揃うんですね」
「外敵から身を守るためでもあります」
匠は魚の群れを目で追う。
「一匹では小さくても、群れれば大きな生き物に見せることができますから」
「なるほど」
本子は頷く。
匠の話は面白かった。
ただ眺めるだけでは分からなかったことが。
少しずつ見えるようになる。
けれど。
大水槽を眺めているうちに。
本子の頭の中へ、別の声が浮かんだ。
『魚、多いな』
縁之丞なら。
きっと、それだけだった。
『もっと何かないの?』
『でかい魚もいる』
『見たら分かる』
『じゃあ、小さい魚もいる』
『それも見たら分かるって』
知識も。
深い意味もない。
見たものを、そのまま口にしただけの感想。
けれど。
想像しただけで。
本子の口元が、自然と緩んだ。
「どうしました?」
匠が不思議そうに尋ねる。
本子は慌てて首を横に振った。
「……何でもないです」
「そうですか?」
「はい」
本子は再び水槽へ視線を戻す。
目の前では。
小さな魚の群れが、光を反射しながら形を変えていた。
◇
その後も。
二人は館内をゆっくりと見て回った。
ペンギンが水の中を飛ぶように泳ぎ。
大きな海獣が、重そうな身体を器用に動かす。
匠は一つひとつの展示を丁寧に説明してくれた。
本子も。
知らなかったことを知るたびに、素直に声を上げた。
楽しかった。
それは間違いない。
匠の話は。
縁之丞より何倍も知的で。
何倍も分かりやすく。
何倍も面白かった。
それなのに。
大きな魚を見た時。
変な顔の生き物を見つけた時。
頭に浮かぶのは。
『何だこいつ』
きっと、そんなことしか言わない。
幼馴染の声だった。
匠から教えてもらえる話も。
知らなかった世界も。
本子は心から魅力的だと思っている。
それでも。
今。
隣で聞きたいと思ってしまったのは。
縁之丞の。
何の役にも立たない、くだらない感想だった。




