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ずっと普通だった幼馴染と、今日から恋人ごっこを始めます  作者: Atelier Lotus


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第105話 あなたの隣では

 大水槽を離れた後。


 本子と匠は、館内の奥へと進んでいた。


 薄暗い通路。


 壁に埋め込まれた水槽の中を、見慣れない魚たちが泳いでいる。


「あっ」


 本子が足を止めた。


 水槽の隅に。


 平たい身体と、大きく突き出た目を持つ魚がいた。


 口元は妙にへの字に曲がっている。


「変な顔」


 本子は思わず笑い、スマートフォンを取り出した。


 写真を撮る。


 そして。


 いつもの癖で、縁之丞とのメッセージ画面を開いた。


『縁之丞に似てる』


 文章まで打ち込み。


 送信ボタンへ指を伸ばす。


 けれど。


 その指は、途中で止まった。


 隣には匠がいる。


 今日は匠と出かけているのだ。


 その最中に、別の男性へ写真を送るのは。


 少し失礼な気がした。


 本子は打ち込んだ文章を消し。


 そっとスマートフォンを鞄へ戻した。


「気になる魚でしたか?」


 匠が尋ねる。


「はい」


 本子はもう一度、水槽を見る。


「知ってる人に似ていたので」


「そうなのですか?」


「特に、この口の辺りが」


 匠は魚を見つめる。


「随分と特徴的な方なのですね」


「本人が聞いたら怒ると思います」


 本子は笑った。


 けれど。


 その笑いを、縁之丞本人にも見せたかった。


     ◇


 昼食は、水族館に併設されたレストランで食べることになった。


 本子が注文したのは、魚介を使ったクリームパスタだった。


 一口食べる。


「美味しい」


「気に入りましたか?」


「はい」


 濃厚なソースに、少し香ばしく焼かれた魚。


 普段あまり食べない味だった。


(縁之丞にも食べさせたいな)


 また。


 自然と、そんなことを考えていた。


 縁之丞なら。


『水族館で魚を見た後に、魚を食べるのか』


 きっと、どうでもいいことを言う。


『じゃあ何食べるの?』


『肉』


『水族館に来てまで?』


『魚を見る場所だろ。食べる場所じゃない』


 想像するだけで。


 本子は小さく笑ってしまう。


「何か面白いものでも?」


 匠が穏やかに尋ねた。


「いえ」


 本子は慌てて首を横に振る。


「ちょっと思い出しただけです」


 誰を思い出したのか。


 匠は尋ねなかった。


     ◇


 水族館を一通り見終えた二人は。


 出口近くにある土産物店へ入った。


 棚には。


 魚やペンギンを模したぬいぐるみ。


 菓子。


 キーホルダー。


 色鮮やかな小物が並んでいる。


 本子は、棚の隅に置かれたぬいぐるみへ目を留めた。


 青い魚のぬいぐるみ。


 左右の目の高さが少しずれていて。


 口が不機嫌そうに曲がっている。


「何これ」


 本子は手に取り、思わず笑った。


 妙に不格好だった。


 けれど。


 見れば見るほど、愛嬌がある。


(縁之丞に似てる)


 先ほどの魚よりも。


 さらに似ている気がした。


「気に入られましたか?」


 匠が隣からのぞき込む。


「私というより」


 本子はぬいぐるみを見つめたまま答える。


「知り合いに似てるんです」


「先ほどの魚に似ていた方ですか?」


「はい。同じ人です」


 匠は少し笑った。


「お土産にされるのですか?」


「どうしようかな」


 こんなものを渡したら。


 縁之丞は間違いなく嫌な顔をする。


 それでも。


 その反応を見たいと思った。


「どなたへのお土産ですか?」


 匠が何気なく尋ねる。


「幼馴染です」


「男性ですか?」


 本子は少しだけ間を置いた。


「……はい」


「そうですか」


 匠はそれ以上、何も聞かなかった。


 表情も変えず。


 別の棚へ静かに視線を移す。


 その気遣いが。


 本子には少し申し訳なく感じられた。


 結局。


 本子は魚のぬいぐるみを買った。


     ◇


 水族館を出ると。


 空は夕暮れに染まり始めていた。


 駅へ向かう道を、二人で並んで歩く。


 匠は今日見た展示について、時折穏やかに話してくれた。


 本子も笑いながら答える。


 けれど。


 しばらくすると、会話が途切れた。


 足音だけが続く。


 本子は隣を歩く匠を、ちらりと見る。


 穏やかな表情。


 退屈そうには見えない。


 それでも。


(何か話した方がいいかな)


 そんなことを考えた。


 今日見た魚の話。


 匠の仕事の話。


 美術館の話。


 何か話題を探さなければ。


 黙っていたら、つまらないと思われるかもしれない。


 自分の受け答えが。


 幼く見えていないだろうか。


 十歳も年下なのだ。


 子供っぽいと思われたくない。


 もう少し落ち着いて話した方がいいのかもしれない。


 もっと知的なことを言えれば。


 匠に釣り合うように見えるのだろうか。


 本子は何度も、頭の中で言葉を探した。


「鬼灯さん」


「はいっ」


 突然呼ばれ。


 本子は少し大きな声で返事をしてしまう。


「疲れましたか?」


「いえ、大丈夫です」


「今日は随分と歩きましたから」


「本当に大丈夫です」


 本子は笑ってみせる。


 匠は優しく頷いた。


 匠が悪いわけではない。


 沈黙を責められたわけでもない。


 もっと話せと言われたわけでもない。


 ただ。


 本子自身が。


 匠から良く見られようとしていた。


     ◇


 縁之丞と歩く時は。


 こんなことを考えたことがなかった。


 二人で黙ったまま、駅まで歩くこともあった。


 何も話さず。


 ただ並んで歩くだけ。


 それでも。


 気まずいと思ったことはない。


 話題を探す必要もなく。


 無理に笑う必要もない。


 疲れていれば、疲れた顔をして。


 機嫌が悪ければ、機嫌が悪いまま歩く。


 時々。


 どちらからともなく、どうでもいい話を始める。


 沈黙さえも。


 二人の日常の一部だった。


 匠の隣にいれば。


 知らなかった世界を、いくつも見せてもらえる。


 疑問を口にすれば。


 決して笑わず、丁寧に答えてくれる。


 知識が豊富で。


 仕事への誇りがあり。


 心から尊敬できる人だった。


 けれど。


 縁之丞の隣では。


 何も知らなくてもいい。


 面白いことを言えなくてもいい。


 良く見せようとしなくてもいい。


 何も飾らない自分のままで。


 ただ、そこにいることができた。


     ◇


 駅へ着く。


「今日はありがとうございました」


 匠がいつものように、丁寧に頭を下げる。


「こちらこそ」


 本子も頭を下げた。


「すごく楽しかったです」


「僕もです」


 その言葉に嘘はない。


 本子も。


 匠との時間を、本当に楽しいと感じていた。


 けれど。


 匠と別れ。


 一人になった本子は。


 鞄の中にある、不格好な魚のぬいぐるみへ触れた。


 早く渡したい。


 嫌そうな顔をする縁之丞が見たい。


 そして。


 今日あったことを。


 何も考えず、思いつくまま話したかった。


 その時。


 本子は初めて気づいた。


 尊敬できる相手と。


 自分が帰りたいと思う相手は。


 必ずしも。


 同じではなかった。

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