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ずっと普通だった幼馴染と、今日から恋人ごっこを始めます  作者: Atelier Lotus


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107/121

第106話 今日一番思い浮かべた人

 水族館を出た後。


 本子と匠は。


 駅へ向かって、並んで歩いていた。


 夕暮れに染まり始めた街。


 行き交う人々の声に混じり。


 二人の足音が、静かに続いている。


 先ほどから。


 会話は途切れたままだった。


 本子は。


 何か話さなければと思いながらも。


 言葉を見つけられずにいた。


 匠と一緒にいる時間が。


 楽しくなかったわけではない。


 むしろ。


 今日も、知らなかったことをたくさん教えてもらった。


 大きな水槽の仕組み。


 魚たちが泳ぐ場所の違い。


 光の当て方や。


 水の流れにまで意味があること。


 匠の話を聞いていれば。


 何気なく見ていた景色が。


 まったく違うものに見えた。


 それでも。


 本子の胸には。


 言葉にできないものが残っていた。


 そんな中。


 匠が静かに口を開く。


「鬼灯さん」


「はい」


「僕のことを」


 匠は。


 穏やかな声で続ける。


「嫌っているわけではないのでしょう」


 本子は驚き。


 隣を歩く匠を見上げた。


 その表情は。


 いつもと変わらず、落ち着いていた。


「はい」


 本子は正直に頷く。


「とても素敵な方だと思っています」


「ありがとうございます」


「お仕事にも、すごく誇りを持っていて」


「いろんなことを知っていて」


「私の話も、ちゃんと聞いてくれて」


 本子は。


 一度、言葉を止める。


「本当に」


「尊敬しています」


 その言葉に。


 嘘はなかった。


 匠は。


 本子がこれまで出会った中でも。


 間違いなく、立派な人だった。


 匠は穏やかに頷く。


「ですが」


 僅かに間を置いて。


「僕を好きではない」


 本子は。


 何も答えられなかった。


 嫌いではない。


 むしろ。


 好ましく思っている。


 もっと話を聞きたいとも思った。


 一緒に過ごした時間は。


 本当に楽しかった。


 それでも。


 匠の言葉を。


 否定することはできなかった。


     ◇


「正確には」


 匠は。


 前を向いたまま続ける。


「すでに、好きな方がいるのでしょうね」


「好きかどうかは」


 本子は俯いた。


「まだ、分からないんです」


 幼い頃から。


 ずっと隣にいた人。


 朝になれば。


 当たり前のように一緒に学校へ向かい。


 何かあれば。


 最初に話してきた。


「ずっと一緒にいた人だから」


「これが恋なのか」


「ただ、離れたくないだけなのか」


「自分でも分からなくて」


 匠は。


 しばらく考えるように黙っていた。


 やがて。


「では」


 静かな声で尋ねる。


「一つだけ」


「質問してもよろしいですか?」


「はい」


「今日一日で」


 匠は。


 本子へ視線を向けた。


「最も多く思い浮かべた人は、誰ですか?」


 本子は。


 言葉を失った。


 考えるまでもなかった。


 変な顔の魚を見た時。


 縁之丞に似ていると思った。


 美味しい料理を食べた時。


 縁之丞にも食べさせたいと思った。


 不格好なぬいぐるみを見つけた時。


 縁之丞へ渡したいと思った。


 会話が途切れた時。


 縁之丞との沈黙を思い出した。


 今日。


 本子の隣を歩いていたのは。


 匠だった。


 それなのに。


 何かを見るたび。


 何かを感じるたび。


 頭に浮かんだのは。


 ずっと。


 縁之丞だった。


「……幼馴染です」


 本子は。


 小さな声で答えた。


「霧島縁之丞」


 初めて。


 匠の前で。


 その名前を口にした。


     ◇


「その方と一緒にいる時のあなたは」


 匠は柔らかく微笑む。


「きっと」


「今日よりも自然に笑うのでしょう」


 本子は。


 何も言えなかった。


 匠の言葉は。


 自分でも気づき始めていたことを。


 静かに言い当てていた。


「僕は」


 匠は。


 前へ視線を戻す。


「あなたの隣にある」


「その方の席を奪いたくありません」


「でも、市之瀬さんは――」


「僕も」


 匠は、本子の言葉を遮るように。


 静かに告げた。


「あなたに好意を持ちました」


 本子は目を見開く。


 匠は。


 冗談を言うような人ではない。


 その言葉が本心であることは。


 落ち着いた眼差しから伝わってきた。


「初めてお会いした時から」


「飾らずに笑う方だと思いました」


「知らないことを」


「知らないと正直に言える」


「分からないなりに」


「自分の言葉で考えようとする」


 匠は。


 僅かに目を細める。


「一緒にいる時間を」


「僕も、楽しいと感じていました」


「市之瀬さん……」


「ですが」


 匠は静かに首を横へ振る。


「今すぐ」


「お返事を求めるつもりは」


「最初からありませんでした」


「あなたは、まだ学生です」


「僕とは」


「十歳も年齢が違う」


「時間をかけて」


「ゆっくりと知り合えればと思っていました」


 本子は。


 黙って聞く。


「だからこそ」


 匠の声は。


 最後まで、穏やかだった。


「今のあなたが」


「心から望んでいる相手を」


「僕の都合で、遠ざけたくはありません」


     ◇


「医師は」


 匠は。


 少し考えるように言葉を選ぶ。


「患者本人の意思を無視して」


「治療を選ぶべきではありません」


「どれほど医師が正しいと思っていても」


「どれほど周囲が」


「その治療を望んでいても」


「最後に選ぶのは」


「患者本人です」


 本子は。


 匠を見上げる。


「結婚も」


 匠は続ける。


「きっと、同じなのでしょう」


「どれほど条件が整っていても」


「どれほど周囲が」


「良い縁だと思っても」


「本人が心から望んでいなければ」


「意味がない」


 匠は。


 少しだけ笑った。


「人の人生を」


「他人が代わりに選ぶことはできませんから」


 本子は。


 足を止めた。


 少し遅れて。


 匠も立ち止まる。


 本子は。


 匠へ深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


「でも」


 本子は、顔を上げられないまま続ける。


「市之瀬さんは」


「ずっと優しくしてくれたのに」


「それは」


 匠は。


 本子を困らせないようにするかのように。


 いつもと変わらない笑顔を浮かべる。


「僕が、そうしたかったからです」


 誰かに頼まれたからではない。


 縁談だから。


 仕方なく優しくしたわけでもない。


「今日まで」


「とても楽しい時間でした」


「それだけで十分です」


 本子は顔を上げる。


「私もです」


 声が。


 少しだけ震えた。


「知らないことを」


「たくさん教えてもらえて」


「美術館も」


「ピアノも」


「今日の水族館も」


「全部」


「本当に楽しかったです」


「ありがとうございます」


「だから」


 本子は。


 今度こそ、真っ直ぐ匠を見た。


「中途半端な気持ちのまま」


「これ以上」


「お会いすることはできません」


 匠は。


 静かに頷いた。


「はい」


 その答えには。


 責める響きも。


 引き止める言葉もなかった。


     ◇


 駅へ着くと。


 二人は改札の前で立ち止まった。


「今日は」


 本子は頭を下げる。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


 匠も。


 穏やかに頭を下げる。


「鬼灯さん」


「はい」


「ご自身の気持ちを」


「大切にしてください」


 本子は。


 その言葉を胸に受け止める。


「はい」


 匠は。


 最後まで。


 いつもと変わらない笑顔を浮かべていた。


 けれど。


 本子が改札を通り。


 一度だけ振り返った時。


 匠は。


 まだ、その場所に立っていた。


 本子の姿を。


 静かに見送っていた。


     ◇


 家へ帰った後。


 本子は。


 両親へ、匠との縁談を断りたいと伝えた。


 居間には。


 父の隼人と。


 母の彩葉が座っている。


「市之瀬さんに」


 彩葉が、心配そうに尋ねた。


「何か嫌なところがあったの?」


 本子は。


 すぐに首を横へ振る。


「何もないよ」


「むしろ」


「すごく素敵な人だった」


 知的で。


 落ち着いていて。


 誠実で。


 本子の知らない世界を。


 いくつも見せてくれた。


「だったら」


 隼人が尋ねる。


「なぜ、断るんだ?」


 本子は。


 膝の上で手を握った。


「市之瀬さんと会ってる間」


「ずっと、別の人のことを考えてたから」


 彩葉の目が。


 僅かに細くなる。


「縁之丞君?」


 本子は。


 すぐには答えられなかった。


 好きなのか。


 まだ。


 はっきりとは分からない。


 それでも。


 今日。


 誰よりも多く思い浮かべた人は。


 縁之丞だった。


「……うん」


 本子は。


 小さく頷く。


「縁之丞だった」


 隼人と彩葉は。


 静かに顔を見合わせた。


「市之瀬さんに」


 本子は続ける。


「嫌なところがあったからじゃない」


「本当に」


「何も悪くなかった」


「だからこそ」


 握っていた手へ。


 少しだけ力を込める。


「中途半端な気持ちのまま」


「会い続けたくなかった」


「市之瀬さんにも」


「失礼だから」


 隼人は。


 娘の顔を、しばらく見つめていた。


「自分で決めたのか?」


「うん」


 本子は。


 今度はしっかりと頷いた。


「自分で決めた」


 隼人は。


 静かに目を閉じる。


 そして。


 短く答えた。


「分かった」


 彩葉も。


 穏やかに微笑む。


「本子が」


「自分で考えて決めたのなら」


「私たちは、その気持ちを尊重するわ」


「ありがとう」


 本子は。


 小さく頭を下げた。


     ◇


 市之瀬匠は。


 最後まで。


 静かで。


 知的で。


 誠実な青年だった。


 何一つ。


 不満などなかった。


 きっと。


 匠と結婚すれば。


 穏やかで。


 豊かな人生を送ることができただろう。


 知らないものを。


 いくつも見せてもらい。


 互いを尊重し合う。


 幸せな家庭を築けたかもしれない。


 それでも。


 本子が。


 隣にいてほしいと願った人は。


 匠ではなかった。


 今日一日。


 誰よりも多く思い浮かべた人。


 何かを見つけるたび。


 最初に伝えたいと思った人。


 何も飾らず。


 ただ隣にいたいと思う人。


 その気持ちを。


 まだ。


 恋だと言い切ることはできなかった。


 けれど。


 もう。


 ただの幼馴染へ向ける気持ちではないことだけは。


 本子にも。


 分かり始めていた。

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