第93話 ただの幼馴染
翌朝。
本子がいつもの待ち合わせ場所へ向かうと。
縁之丞は、昨日までと変わらずそこに立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
本子は少しだけ歩みを緩める。
「待った?」
「少し」
「いつもそれ言うよね」
「いつも待ってるからな」
「早く来すぎなんじゃない?」
「本子が遅い」
「今日は時間どおりだよ」
「俺より遅い」
「それを遅刻とは言わないから」
いつもと同じ会話。
いつもと同じ距離。
縁之丞は何事もなかったように歩き出し、本子もその隣へ並ぶ。
昨日。
二人の許嫁の約束は白紙になった。
それなのに。
朝の景色は何一つ変わっていない。
縁之丞は同じ場所で待っていた。
本子も同じように声を掛けた。
二人は同じ道を並んで歩いている。
本子は、少しだけ安心した。
許嫁ではなくなったからといって。
すぐに何かが変わるわけではないらしい。
けれど。
同時に思う。
もう、自分たちは許嫁ではない。
◇
学校へ着いてからも。
何も変わらなかった。
教室へ向かい。
授業を受け。
昼休みになれば、いつものように二人で昼食を食べる。
本子は縁之丞の弁当を覗き込んだ。
「今日、唐揚げあるじゃん」
「あるな」
「一個ちょうだい」
「嫌だ」
「昨日、私の卵焼き食べたでしょ」
「交換しただけだろ」
「じゃあ、今日も交換」
「何と?」
本子は自分の弁当を見る。
「ブロッコリー」
「いらない」
「栄養あるよ」
「唐揚げと釣り合ってない」
「じゃあ、二個」
「増やせばいいって話じゃない」
本子は縁之丞が目を離した隙に、唐揚げを一つ取った。
「あ」
「いただきます」
「勝手に取るな」
「昨日まで許嫁だった仲なんだから、唐揚げ一個くらいいいでしょ」
言ってから。
本子は自分の言葉に引っかかった。
昨日まで。
その言葉だけで、胸の奥が少し重くなる。
縁之丞も、一瞬だけ黙った。
「昨日までじゃなくても駄目だ」
「そこ?」
「唐揚げは別だ」
「心狭いね」
「本子が遠慮なさすぎる」
二人は、またいつもどおりのやり取りへ戻る。
周囲から見れば。
何も変わっていないように見えるだろう。
放課後になれば。
どちらから誘うこともなく、自然に一緒に帰る。
歩幅を合わせることも。
信号で並んで止まることも。
細い道でどちらかが少し後ろへ下がることも。
全部、昨日までと同じだった。
それでも。
本子の頭には、一つのことが何度も浮かんでいた。
縁之丞は、もう自由なのだ。
誰かを好きになってもいい。
別の女性と付き合ってもいい。
その人との結婚を選んでもいい。
許嫁だった頃は。
どれだけ喧嘩しても。
どれだけ相手の気持ちが分からなくても。
将来、縁之丞の隣にいるのは自分なのだと思っていた。
約束があった。
幼い頃に親同士が決めたものでも。
それでも。
二人を将来まで繋いでいるものがあった。
今は違う。
縁之丞の隣は。
もう、本子の場所だと決まっているわけではない。
◇
帰り道。
本子は隣を歩く縁之丞を何度も横目で見た。
「何だよ」
「別に」
「さっきから見てるだろ」
「見てない」
「見てた」
「自意識過剰じゃない?」
「じゃあ、何だったんだよ」
本子は少し迷う。
聞かなければ。
ずっと気になったままになる。
「ねえ」
「何?」
「許嫁じゃなくなったけど」
縁之丞の足が、ほんの少しだけ遅くなる。
「恋人ごっこはどうするの?」
「続けるだろ」
あまりにも早い返事だった。
本子は目を瞬かせる。
「即答なんだ」
「何で迷う必要があるんだ?」
「だって」
「本子はやめたいのか?」
「嫌とは言ってない」
「なら続ければいい」
「でも、最初は許嫁の練習だったでしょ?」
「最初はな」
「今は?」
縁之丞は少しだけ考える。
本子は、無意識に息を止めていた。
もし。
許嫁じゃなくなったなら、もう必要ないと言われたら。
どうすればいいのだろう。
そんな不安が胸の中へ広がる。
やがて。
縁之丞が答える。
「俺たちが続けたいから続けてる」
本子の胸が。
少しだけ温かくなった。
「許嫁だからじゃなくて?」
「ああ」
「親に言われたからでもなくて?」
「それも違う」
「じゃあ、本当に?」
「何回聞くんだよ」
「確認してるだけ」
「俺は続けたい」
縁之丞は前を向いたまま言う。
「本子が嫌じゃないなら」
本子は、少しだけ口元を緩めた。
「嫌とは言ってない」
「さっきも聞いた」
「大事なことだから」
許嫁だからではない。
親に決められたからでもない。
縁之丞自身が。
本子との恋人ごっこを続けたいと思っている。
それだけで。
少しだけ救われた気がした。
◇
二人は、そのまま並んで歩く。
本子は少し迷った後、ぽつりと呟いた。
「ただの幼馴染に戻っただけだよね」
縁之丞が首を傾げる。
「前とは違うだろ」
「何が?」
「恋人ごっこしてる」
「それだけ?」
縁之丞は答えに詰まった。
本子は、その横顔を見る。
何か。
もっと違う言葉を期待していた。
ただの幼馴染ではない。
恋人ごっこだけでもない。
そんな答えを。
「……今は、それだけ」
縁之丞は、少し迷いながら答えた。
「そっか」
本子は前を向く。
今は、それだけ。
なら。
いつか。
それ以上になれるのだろうか。
それとも。
ずっと、このままなのだろうか。
二人は許嫁ではなくなった。
それでも。
今日も隣を歩いている。
けれど。
その隣が明日もあるという保証は。
もう、どこにもなかった。




