第92話 許嫁をやめましょう
週末。
霧島家では、いつものように両家の食事会が開かれていた。
広い和室には、霧島家と鬼灯家の六人が食卓を囲んでいる。
縁之丞と本子は隣同士。
向かい側では、清之丞と隼人が昔の話で盛り上がっていた。
「そういえば、昔はよく山へ入ったな」
清之丞が懐かしそうに言う。
「ああ」
隼人も頷く。
「清之丞が道に迷って、帰れなくなったこともあった」
「迷ったんじゃない。少し遠回りしただけだ」
「三時間も?」
「山は広いからな」
「完全に迷ってるじゃない」
楓が呆れたように笑う。
「隼人さんがいなかったら、朝まで帰れなかったんじゃない?」
「大丈夫だ。いずれ方角は分かった」
「三時間分からなかった人が言っても説得力ないよ」
縁之丞が口を挟む。
「うるさい」
清之丞が不満そうに答える。
彩葉が楽しそうに笑った。
「隼人さんも、昔から清之丞さんのお世話ばかりしていたのね」
「お互い様だ」
「俺は世話になった覚えはないぞ」
「ある」
「例えば?」
「多すぎて思い出せない」
「それはないのと同じだろ」
「違うと思うよ」
本子が笑う。
食卓へ、いつものような笑い声が広がった。
学校での出来事。
最近の部活動。
小さい頃の失敗談。
話題は次々と移っていく。
「そういえば、縁之丞は小さい頃、本子に負けるとすぐ拗ねてたな」
隼人が言う。
「拗ねてない」
「木刀を取られて、庭の隅で黙ってたでしょう?」
彩葉が笑う。
「覚えてない」
「私は覚えてるよ」
本子が嬉しそうに縁之丞を見る。
「返してって言えなくて、ずっとこっち見てた」
「そんなことしてない」
「してた」
「本子が勝手に取ったんだろ」
「取られる方が悪いって言われてたよね」
「それを言ったのは父さんだ」
「そうだったか?」
清之丞が首を傾げる。
「自分で言ったことくらい覚えてろよ」
「昔のことだからな」
「都合いいね」
本子がくすりと笑う。
縁之丞も、呆れながら少しだけ笑った。
食事が終わるまでは。
本当に、いつもと何も変わらなかった。
◇
食器が片付けられ。
食後のお茶が運ばれる。
話題が途切れたところで、彩葉が縁之丞と本子を見た。
「二人に、大切な話があるの」
それまで和やかだった空気が、少しだけ変わった。
清之丞。
楓。
隼人。
彩葉。
四人とも、穏やかではあるものの、真剣な表情をしている。
縁之丞と本子も、自然と姿勢を正した。
「何?」
本子が尋ねる。
「何かあったのか?」
縁之丞も両親たちを見る。
彩葉は一度、他の三人へ視線を向けた。
それから。
二人へ向き直る。
「一度、許嫁の話を白紙にしましょう」
縁之丞と本子の動きが。
同時に止まった。
「……え?」
本子が小さな声を漏らす。
「どうして急に?」
縁之丞も、思わず聞き返した。
「何か問題があったのか?」
「問題があったわけではないの」
楓が静かに答える。
「むしろ、二人のことを考えた結果よ」
「どういうこと?」
本子には意味が分からなかった。
許嫁の話をしたのは、両親たちだった。
二人がそのことを受け入れ。
少しずつ互いを意識するようになったところで。
今度は白紙にすると言われた。
「許嫁の約束は、俺たちが二人の幼い頃に交わしたものだ」
清之丞が口を開く。
「二人自身が決めたことじゃない」
「でも、今まで問題ないって言ってたよね?」
本子が尋ねる。
「もちろん、二人が望むなら何の問題もない」
隼人が穏やかに答える。
「ただ、望んでいるのかどうかを、きちんと自分たちで考えてほしいんだ」
「考えてる」
縁之丞が答える。
「本当に?」
楓が優しく尋ねる。
「許嫁だと知らされたから、本子ちゃんを意識するようになったんじゃない?」
「それは……」
縁之丞は言葉に詰まる。
許嫁だと知らなければ。
恋人ごっこを始めることもなかった。
本子と手を繋ぐことも。
二人きりで出かけることも。
本子が他の男から告白されたことに、あれほど動揺することもなかったかもしれない。
「本子も同じよ」
彩葉が言う。
「許嫁だから、縁之丞君を好きにならなければいけないと思っていない?」
「思ってないよ」
本子はすぐに否定する。
「本当に?」
「……多分」
「多分では分からないでしょう?」
本子は黙り込む。
自分でも分からなかった。
縁之丞を意識するようになったのは、確かに許嫁だと知ってから。
その気持ちが。
本当に自分のものなのか。
親に決められた相手だから、そう思い込んでいるだけなのか。
はっきりとは答えられない。
「親同士の約束で、二人の人生を縛りたくないの」
彩葉が静かに続ける。
「結婚する相手は、二人が自分で選ぶべきよ」
「一度自由になって、自分たちの意思で相手を選びなさい」
隼人も頷いた。
「許嫁という約束がなくても、それでも一緒にいたいと思えるのか」
「それを考えてほしいんだ」
縁之丞は両親たちの話を聞きながら、拳を握った。
言っていることは理解できる。
二人を引き離したいわけではない。
むしろ。
自分たちの気持ちを尊重しようとしてくれている。
それでも。
許嫁という言葉がなくなるだけで。
本子との間にあった将来の約束まで消えてしまう気がした。
「また同じ相手を選んでもいいのよ」
楓が優しく微笑む。
「むしろ、自分たちで選んだ結果が同じなら、私たちは嬉しいわ」
「二人が結婚してくれれば、両家としても嬉しい」
清之丞も続ける。
「だが、それは俺たちが決めることじゃない」
「二人が決めることだ」
静かな沈黙が、和室へ落ちた。
本子は隣を見る。
縁之丞も、同じように本子を見た。
目が合う。
けれど。
どちらも何も言えない。
許嫁のままでいたい。
そう言えばいい。
それだけで、この話は終わるかもしれない。
両親たちも、それを否定はしないだろう。
だが。
その言葉を口にすることは。
自分が相手との結婚を望んでいると認めることだった。
本子は言えない。
縁之丞も、言えない。
長い沈黙の後。
縁之丞が先に口を開いた。
「……分かった」
本子の胸が。
小さく痛んだ。
縁之丞は。
それでいいと思っている。
許嫁をやめることを、簡単に受け入れられる。
そう見えてしまった。
「本当にいいのか?」
清之丞が確認する。
「ああ」
縁之丞は頷く。
「親に決められたままじゃなくて、自分で考えろってことだろ」
「そうだ」
「なら、分かった」
縁之丞は、もう一度答えた。
本子は唇を噛む。
胸の奥が苦しい。
けれど。
縁之丞が受け入れたのに。
自分だけが嫌だと言うことはできなかった。
「本子は?」
彩葉が尋ねる。
本子は縁之丞を見る。
縁之丞も、自分の答えを待っている。
「……私も」
声が少しだけ震える。
「私も、それでいい」
今度は。
縁之丞の胸が痛んだ。
本子も。
許嫁をやめたいと思っていたのかもしれない。
だから、あっさりと受け入れた。
そう感じてしまった。
両親たちは。
二人の表情が曇ったことに気づいていた。
それでも、何も言わなかった。
ここで互いを引き止めるかどうかも。
二人自身が決めなければならないことだった。
◇
その日。
幼い頃から。
二人を将来まで結んでいた約束は。
正式に、白紙となった。




