第91話 気づいていた
夕食後。
本子が食器を台所へ運ぼうとすると、母親の彩葉から呼び止められた。
「本子」
「何?」
「縁之丞君とは、もう仲直りしたの?」
本子の手が止まる。
「……何のこと?」
「少し前まで、一緒に登校していなかったでしょう?」
「たまたまだよ」
「帰りも別々だったそうね」
「何で知ってるの?」
「あなたたちのことなら、見ていれば分かるわ」
本子は気まずそうに目を逸らした。
学校では、いつもどおりに振る舞っていたつもりだった。
家でも、縁之丞の話をしないよう気をつけていた。
それなのに。
彩葉には、すべて気づかれていたらしい。
「喧嘩したの?」
「別に、喧嘩ってほどじゃないよ」
「そう」
「ちょっと、話さなかっただけ」
「それを喧嘩と言うんじゃないかしら?」
「……そうかも」
本子は諦めたように答える。
彩葉は本子を責めることなく、静かに尋ねた。
「何があったの?」
「いろいろ」
「いろいろでは分からないわ」
「説明するの、恥ずかしい」
「恋人ごっこのこと?」
本子は食器を落としそうになった。
「何で知ってるの!?」
「楓さんから聞いたわ」
「縁之丞……!」
「縁之丞君が話したわけではないそうよ」
「じゃあ、どうして?」
「見ていれば分かるって」
「親って怖い……」
本子は食器をテーブルへ戻し、椅子へ座った。
恋人ごっこをしていることまで知られているなら、もう隠しても仕方がない。
彩葉も本子の向かい側へ座る。
「私たちが許嫁の話をしたから、縁之丞君を必要以上に意識するようになったんじゃない?」
本子は答えに詰まった。
許嫁だと聞かされなければ。
恋人ごっこを始めることもなかった。
手を繋ぐことも。
二人きりで出かけることも。
縁之丞が他の女の子と話しているだけで、落ち着かなくなることもなかったかもしれない。
「……分からない」
「本子は、縁之丞君のことをどう思っているの?」
「それも、まだ分からない」
嘘ではない。
好きなのかと聞かれても、まだ自信を持って頷けない。
けれど。
縁之丞がいなくなるのは嫌だった。
縁之丞が別の女性と付き合うことを考えるのも嫌だった。
許嫁ではなくなることなど。
今まで、考えたこともなかった。
「ただ」
本子は小さく口を開く。
「ただ?」
「……いなくなるのは、嫌」
そこまで言うのが精一杯だった。
彩葉は少し驚いた後、穏やかに笑う。
「そう」
「何、その顔」
「別に」
「絶対何か考えてる」
「本子も、ちゃんと女の子なんだなと思って」
「失礼なんだけど!」
本子は頬を膨らませ、食器を持って台所へ向かう。
その背中を見送りながら。
彩葉は、少しだけ考え込んでいた。
◇
同じ頃。
縁之丞もまた、両親から呼び止められていた。
「最近、本子ちゃんと何かあったのか?」
父親の清之丞から尋ねられ、縁之丞は何気なく答える。
「もう仲直りした」
言ってから。
縁之丞は口を閉じた。
清之丞が少し笑う。
「やっぱり喧嘩してたんじゃないか」
「……喧嘩というか」
「何があったの?」
母親の楓が尋ねる。
「別に」
「本子ちゃんを泣かせた?」
「泣かせてない」
縁之丞は少し間を置く。
「泣きそうな顔にはさせたけど」
「それは駄目じゃない」
楓の表情が曇る。
「何を言ったの?」
「言ったというか、何も言わなかったというか」
「余計に分からないわ」
「説明するのが難しい」
本子が他の男から告白された。
それを止めてほしいと言われた。
だが、自分には止める権利がないと思ってしまった。
そんな話を両親へ説明するのは、さすがに恥ずかしい。
「まあ、仲直りしたならいいけどな」
清之丞はそう言ったが、楓はまだ考え込んでいた。
「許嫁だと伝えたことで、二人を困らせてしまったのかもしれないわね」
縁之丞は反射的に否定する。
「困ってない」
「そう?」
「ああ」
「でも、許嫁だと知るまでは、そんな喧嘩をしたことはなかったでしょう?」
「それは……」
縁之丞は答えに詰まる。
確かに。
許嫁だと知らされるまでは、本子が誰と付き合おうと、自分には関係ないと思っていた。
少なくとも。
そう思っているつもりだった。
「恋人ごっこだって、俺たちが決めて始めたことだから」
縁之丞が言うと、清之丞と楓が顔を見合わせる。
「親に言われたからじゃないのね?」
「ああ」
「許嫁の練習として始めたんじゃなかったのか?」
清之丞が尋ねる。
「最初はそうだったけど」
「今は違うの?」
楓に尋ねられ、縁之丞は黙り込む。
今は。
許嫁の練習だから続けているわけではない。
本子と手を繋ぐことも。
二人で出かけることも。
今までと少し違う本子を見ることも。
すべて、自分が続けたいと思っている。
「今も続けたいと思っている?」
「……思ってる」
縁之丞は照れながらも、はっきり答えた。
「本子が嫌じゃないなら、続けたい」
清之丞と楓は、もう一度顔を見合わせる。
二人の間にあるものは。
すでに親同士が交わした約束だけではなかった。
◇
その夜。
霧島家と鬼灯家の両親は、二人に内緒で連絡を取り合っていた。
『本子は、縁之丞君がいなくなるのは嫌だと言っていたわ』
電話の向こうで、彩葉が言う。
「縁之丞も、恋人ごっこを続けたいと言っていた」
答えたのは清之丞だった。
『なら、二人を引き離す必要はないでしょう』
隼人の落ち着いた声が続く。
「もちろん、そのつもりはないわ」
楓が答える。
霧島家と鬼灯家は、何代にもわたって付き合いを続けてきた。
現在も互いの家を行き来し、家族同然の関係を築いている。
縁之丞と本子が結ばれれば。
両家にとって、それ以上に嬉しいことはない。
だからこそ。
親同士の約束が、二人を苦しめることだけは避けたかった。
「許嫁という約束がある限り、二人は本当の気持ちを確かめられないのかもしれないな」
隼人が静かに言う。
「私も、そう思うわ」
楓が同意する。
「一度、自由にしてやった方がいいんじゃないか」
清之丞が言うと、しばらく沈黙が続いた。
やがて。
『それでも互いを選ぶなら、それが二人の本当の答えでしょう』
彩葉の言葉に。
両家の考えは一致した。
◇
週末。
いつものように、霧島家と鬼灯家で食事をすることになった。
本子も縁之丞も。
それが、ただの食事ではないことを。
まだ知らなかった。




