第85話 普通の恋人ごっこ
翌朝。
いつもの待ち合わせ場所で、縁之丞は本子を待っていた。
数日前までは、ここに立つことすら苦しかった。
来るかもしれない。
来ないかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
「おはよう」
聞き慣れた声がする。
振り返ると、本子が少しだけ急いだ様子で歩いてきた。
「おはよう」
たったそれだけ。
数日前まで、毎朝交わしていた挨拶。
なのに今日は、妙に意識してしまう。
本子も同じなのか、少しだけ視線を逸らした。
「……待った?」
「少し」
「ごめん」
「いつものことだろ」
「それ、許してない言い方だよね?」
「許してないからな」
「昨日、仲直りしたばっかりなのに」
「遅刻は別だ」
「細かい」
いつものやり取り。
それだけで、縁之丞は少し安心した。
「行くか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
◇
教室へ入ると。
すぐに近くの男子生徒が二人を見た。
「お。仲直りしたんだ?」
「別に喧嘩してない」
「別に喧嘩してない」
二人の声が重なる。
縁之丞と本子は顔を見合わせた。
「真似するなよ」
「縁之丞が真似したんでしょ」
「俺の方が先だった」
「絶対私の方が先」
男子生徒が呆れた顔をする。
「いや、普通に喧嘩してただろ」
「してない」
「してないよ」
「また揃ってるし」
その言葉に、本子が少し笑う。
縁之丞も口元を緩めた。
数日前まで二人の間にあった妙な静けさは、もうなかった。
◇
昼休み。
二人は、以前と同じように机を寄せて昼食を食べていた。
本子が縁之丞の弁当へ箸を伸ばす。
「それもらうね」
「勝手に取るな」
「前は何も言わなかったじゃん」
「今は言う」
「何で?」
「何となく」
本子は卵焼きを口へ運ぶ。
「じゃあ、言うだけなんだ」
「返せ」
「もう食べた」
「だったら聞くなよ」
「聞いてないよ。もらうって言っただけ」
「それは報告だろ」
本子が楽しそうに笑った。
以前と同じだった。
何でもない昼休み。
どうでもいい会話。
けれど。
二人の箸が同じおかずへ伸びた時。
指先が、わずかに触れた。
「……」
「……」
二人とも、一瞬だけ止まる。
本子が先に手を引いた。
「何?」
「別に」
「縁之丞が先に触ったんだけど」
「本子が同じものを取ろうとしたからだろ」
「じゃあ譲って」
「嫌だ」
会話はいつもどおり続く。
けれど。
さっき触れた指先だけが、しばらく妙に気になった。
◇
放課後。
二人は並んで帰っていた。
しばらく歩いたところで、本子が口を開く。
「ねえ」
「何?」
「恋人ごっこ、どうする?」
縁之丞は本子を見る。
「続けるだろ」
「即答なんだ」
「嫌なのか?」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ、続ける」
「縁之丞が決めるの?」
「本子も嫌じゃないんだろ」
「そうだけど」
「ならいいだろ」
本子は少しだけ唇を尖らせた。
「何か雑」
「ちゃんと確認しただろ」
「もう少し迷ったりしないの?」
「続けたいのに、何で迷うんだよ」
本子は返事をしなかった。
その言葉を聞いて、少しだけ頬が熱くなったからだ。
「本子?」
「何でもない」
恋人ごっこは続く。
まだ、本当の恋人ではない。
好きだとも、はっきり言えていない。
それでも。
やめるという選択肢は、二人の中から消えていた。
◇
横断歩道へ差しかかる。
信号が青へ変わる。
縁之丞は何も考えず、隣へ手を差し出した。
本子は、その手を見る。
以前なら何も考えずに握っていた。
恋人ごっこの一つ。
ただの約束。
そう思っていた。
けれど今日は。
少しだけ迷った。
「何?」
縁之丞が不思議そうに尋ねる。
「……別に」
本子は手を伸ばす。
縁之丞の手を握った。
指が重なる。
二人とも前を向いたまま、横断歩道を渡る。
離す理由はない。
けれど。
握っている理由を考えると、少しだけ恥ずかしかった。
手を繋ぐことも。
一緒に帰ることも。
隣にいることも。
今までと同じ。
普通の恋人ごっこ。
ただし。
もう。
相手が別の誰かと歩く姿を。
簡単に想像することは、できなかった。




