第83話 なくなったら
「……何が?」
本子に尋ねられ、縁之丞は言葉に詰まった。
何を謝ればいいのか。
何が間違っていたのか。
全部を理解できているわけではない。
それでも。
今度は、分からないからと逃げたくなかった。
「俺は」
縁之丞は、膝の上で握っていた手に力を込める。
「本子が誰かと付き合っても、応援できると思ってた」
「……うん」
「本子が決めたことなら、それでいいと思ってた」
本子は何も言わず、縁之丞の言葉を待った。
「でも」
縁之丞は小さく息を吐く。
「無理だった」
本子が顔を上げる。
「本子があいつと付き合うかもしれないって考えたら、嫌だった」
「……嫌だったの?」
「ああ」
今度は迷わず答えた。
「なのに、俺が止めたら、本子の邪魔になると思った」
本子が誰かを好きになったのなら。
自分が許嫁だからという理由だけで止めるのは、間違っている。
そう考えていた。
「だから、好きにすればいいって言った」
縁之丞は俯く。
「本子がどうしてほしいのか分からなくて、怒鳴った」
「……うん」
「泣きそうな顔をしてたのに、追いかけることもできなかった」
あの日の本子の顔が浮かぶ。
唇を噛み、涙をこらえていた。
縁之丞は何もできず、遠ざかっていく背中を見ているだけだった。
「ごめん」
今度の謝罪には、はっきりとした意味があった。
本子は少し俯く。
すぐに許すとも、許さないとも言わなかった。
縁之丞は、そのまま言葉を続ける。
「恋人ごっこを始める前から、本子がいるのは普通だった」
朝になれば、待ち合わせ場所へ行く。
学校では、気付けば近くにいる。
帰りも並んで歩く。
「朝、一緒に学校へ行って」
「昼に飯を食べて」
「帰りに、くだらない話をして」
本子は黙ったまま聞いている。
「恋人ごっこを始めてからは、手を繋いだり、飯を分けたりした」
「うん」
「あれも、すぐに普通になった」
最初は恥ずかしかったはずなのに。
いつの間にか、本子と手を繋ぐことも。
同じものを食べることも。
当たり前になっていた。
「ずっとあるものだと思ってたから、何とも思ってなかった」
縁之丞は、本子の横顔を見る。
「でも」
一人分空いた二人の間が、今はひどく遠く感じる。
「なくなったら、嫌だった」
本子の指が、わずかに動いた。
「剣道部の練習で一本取っても、本子がいないと嬉しくなかった」
「面白いものを見つけても、見せる相手がいなかった」
「一人で帰る道が、すごく長かった」
自分でも、こんなことを口にするとは思っていなかった。
恥ずかしい。
今すぐ逃げ出したい。
それでも。
伝えなければならないと思った。
「俺」
縁之丞は本子をまっすぐ見る。
「本子がいないと、つまらない」
本子の目に、涙が浮かんだ。
「……何それ」
声が少し震えている。
「ごめん」
「告白みたいなのに、全然告白じゃない」
「それも、ごめん」
「謝ってばっかり」
「他に何を言えばいいのか分からない」
本子は目元を拭った。
「まだ分からないの?」
「何が?」
「自分の気持ち」
縁之丞は少し黙る。
ここで適当なことは言いたくなかった。
「ああ。まだ分からない」
「……そっか」
「でも」
縁之丞は、もう一度はっきりと言った。
「本子がいなくなるのは嫌だ」
本子は縁之丞を見る。
好きだとは言われていない。
恋人になってほしいとも言われていない。
それでも。
縁之丞が自分なりに考えて。
逃げずに伝えようとしてくれたことは分かった。
「私だけだと思ってた」
「何が?」
「苦しかったの」
本子は涙を拭いながら、小さく笑った。
自分だけが苦しかったわけではなかった。
縁之丞も同じように。
二人で過ごしてきた普通を失っていた。




