第82話 謝りたい
あの日から、数日が経った。
縁之丞と本子は、一度もまともに話していない。
完全に避けているわけではなかった。
同じ教室にいる。
席も近い。
必要があれば、言葉も交わす。
「本子。これ」
「うん」
後ろから回ってきたプリントを渡す。
「ありがとう」
「ああ」
それだけ。
以前なら、プリントに書かれた内容を見て、本子が何か言っていた。
『また提出物増えた』
『忘れなければいいだろ』
『縁之丞、私の分もやって』
『嫌だ』
そんな会話が、当たり前に続いていた。
今は何もない。
本子はプリントを机へ置くと、すぐに前を向いた。
縁之丞も教科書へ視線を落とす。
教室の中には、普段と変わらない話し声が響いている。
けれど。
二人の周りだけ、妙に静かだった。
◇
昼休み。
近くにいた男子生徒が、小声で尋ねてきた。
「霧島と鬼灯、喧嘩してる?」
「……別に」
「いや、絶対してるだろ」
「してない」
「最近、全然話してないじゃん」
縁之丞は答えなかった。
喧嘩していないというのは、さすがに無理がある。
けれど、認めたくもなかった。
認めたところで、どうすればいいのか分からない。
「まあ、早めに仲直りしろよ」
「余計なお世話だ」
「はいはい」
男子生徒は笑いながら離れていった。
縁之丞は、本子の席を見る。
本子は友人と話していた。
笑っている。
いつもと変わらないように見える。
そのことに安心する。
同時に、少しだけ腹が立った。
自分はこんなに気にしているのに。
本子は平気なのかもしれない。
そう考えてから。
縁之丞は、自分がひどく勝手だと気付いた。
◇
放課後。
縁之丞は鞄を持ち、教室を出た。
今日も部長から、剣道部へ来るように言われている。
昇降口へ向かいかけて。
足が止まった。
このまま剣道場へ行けば。
練習に付き合って。
部員たちと少し話して。
一人で帰る。
また、本子と何も話さないまま一日が終わる。
昨日もそうだった。
一昨日も。
その前も。
朝になれば、いつもの待ち合わせ場所を気にして。
教室では本子の様子を見て。
帰り道では、隣に誰もいないことを気にする。
それなのに。
何もせずに一日を終えている。
「……俺が謝らないと駄目か」
小さく呟く。
何を謝るのか。
正直、まだ完全には分かっていなかった。
本子が何に傷ついたのか。
自分の言葉の何がいけなかったのか。
全部を理解できているわけではない。
ただ。
本子に、泣きそうな顔をさせた。
あんなふうに、涙をこらえさせた。
それだけで、謝る理由としては十分だった。
縁之丞は踵を返した。
◇
本子が委員会で使っている教室へ向かう。
扉を開ける。
しかし、中には誰もいなかった。
机の上も片付いている。
すでに委員会は終わったらしい。
「いないか」
縁之丞は廊下へ戻る。
教室へ向かう。
誰もいない。
図書室を覗く。
いない。
中庭。
渡り廊下。
購買の前。
思いつく場所を順番に探していく。
自分でも、なぜここまで必死になっているのか分からなかった。
明日でもいい。
連絡を送ってもいい。
それなのに。
今日話さなければ。
また何もできなくなる気がした。
最後に昇降口へ向かう。
靴箱の前に、本子がいた。
一人で上履きを脱ぎ、靴へ履き替えている。
「本子」
本子の肩が、小さく揺れた。
ゆっくりと振り返る。
目が合う。
数日ぶりに、正面から本子の顔を見た。
「何?」
声は冷たくない。
けれど、表情は硬かった。
縁之丞は、何度も頭の中で考えていた言葉を口にしようとする。
だが。
本子を前にすると、何も出てこない。
「……少し話せる?」
本子は黙った。
一瞬、視線が逸れる。
「今?」
「ああ」
「明日じゃ駄目なの?」
「今日がいい」
自分でも驚くほど、はっきりと答えていた。
本子は縁之丞の顔を見る。
縁之丞も目を逸らさなかった。
しばらくして。
本子は小さく頷いた。
「……分かった」
◇
二人は、学校の近くにある公園へ向かった。
昔から何度も立ち寄っている場所だった。
小学生の頃。
帰りが遅くなって、二人で叱られたこともある。
中学生になってからも。
どうでもいい話をしながら、何度もベンチに座った。
いつもなら、何も考えず隣へ座る。
けれど今日は。
二人の間には、一人分の隙間が空いていた。
縁之丞は膝の上で手を握る。
本子は前を向いたまま、何も言わない。
何から話せばいいのか分からない。
数日前までは、話題なんて考えたこともなかった。
何でも話せた。
何もなくても話せた。
今は。
最初の一言すら難しかった。
縁之丞は息を吸う。
「本子」
「うん」
「……ごめん」
本子はすぐには答えなかった。
少しだけ俯く。
そして。
「……何が?」
静かに尋ねた。
縁之丞は言葉に詰まった。
何が悪かったのか。
何を伝えたかったのか。
自分でも分からなかった気持ちを。
今、初めて言葉にしようとしていた。




