第7話 いつも通りじゃない
食事も一段落し、大人たちは食卓に残って晩酌を始めた。
「もう少し飲もう」
「昔話の続きでもする?」
「二人が小さかった頃の写真も見たいわね」
「それはやめて!」
本子が慌てて止めると、大人たちは楽しそうに笑い合った。
先ほど許嫁の話をしたばかりだというのに、四人はもう普段通りだった。
けれど、縁之丞と本子はそうはいかない。
互いの顔を見れば、先ほど聞かされた言葉が頭へ浮かぶ。
許嫁。
結婚。
今まで自分たちとは無関係だと思っていた言葉が、急に目の前へ現れた。
そんな二人の様子に気づいたのか、楓が声をかける。
「二人は部屋で遊んできてもいいわよ」
「帰る時に呼ぶから」
縁之丞は本子を見た。
「じゃあ、行くか」
「うん」
二人は並んで席を立ち、二階へ上がった。
◇
縁之丞の部屋。
漫画が並ぶ本棚。
棚の前に置かれたゲーム機。
壁へ立て掛けられた木刀。
机の上には、ほとんど開かれていない参考書が積まれている。
本子が何度も遊びに来た、見慣れた部屋だった。
勝手に漫画を取ることも。
ゲーム機を起動することも。
疲れたら床へ寝転がることもある。
今さら緊張するような場所ではない。
そのはずなのに。
今日は、妙に落ち着かなかった。
縁之丞はいつもの場所へ腰を下ろす。
本子も、その隣へ座ろうとした。
だが、ほんの一瞬だけ迷い、普段より少し離れた場所へ腰を下ろした。
縁之丞は何も言わなかった。
けれど、二人の間に空いたわずかな隙間が、妙に気になった。
階下からは、大人たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
それとは対照的に、部屋には静かな空気が流れていた。
沈黙に耐えかね、縁之丞がゲーム機のコントローラーを手に取る。
「ゲームする?」
本子はテレビへ目を向けた。
いつもなら、聞かれる前にコントローラーを奪っているところだった。
しかし今日は、少し考えた後、小さく首を横へ振る。
「……今日はいい」
「そっか」
縁之丞はコントローラーを元の場所へ戻した。
また沈黙が訪れる。
普段なら、会話がなくても気まずくない。
同じ部屋で別々の漫画を読んでいても平気だった。
何もせず、ただ隣にいるだけでもよかった。
それなのに今日は、何かを話さなければ落ち着かなかった。
「本子」
縁之丞が意を決して口を開く。
「何?」
「さっきの話なんだけど」
「……うん」
「俺と結婚するの、嫌?」
本子は目を丸くした。
縁之丞は、自分で尋ねておきながら視線を床へ落とす。
「別に、嫌ならいいんだけど」
「無理に結婚する必要はないって言ってたし」
「ただ……ちょっと気になって」
本子はすぐには答えなかった。
自分の膝へ視線を落とし、少しだけ考え込む。
「嫌ではないよ」
縁之丞が顔を上げる。
「本当に?」
「うん」
本子は迷いなく頷いた。
「縁之丞と結婚すること自体が、嫌なわけじゃない」
その答えを聞いた瞬間。
縁之丞は、自分でも気づかないうちに息を吐いていた。
「よかった」
本子が少しだけ笑う。
「そんなに心配だったの?」
「少しだけ」
「私が嫌って言ったら、傷ついた?」
「それは……まあ」
「傷つくんだ」
「本子だって、俺に嫌って言われたら嫌だろ」
本子は少し考える。
「うん。多分、嫌」
「ほら」
「でも」
本子は膝を抱え、困ったように笑った。
「今すぐ結婚したいかって聞かれると、よく分からない」
「……だよな」
縁之丞も苦笑する。
嫌ではない。
けれど、結婚したいと断言できるわけでもない。
高校へ入学したばかりの二人には、結婚というものがあまりにも遠かった。
今度は、本子が縁之丞へ尋ねる。
「縁之丞は?」
「俺?」
「私と結婚するの、嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
迷いのない即答だった。
本子が少しだけ目を見開く。
「即答なんだ」
「本子も即答しただろ」
「そうだけど」
「じゃあ、何だよ」
「別に」
本子は顔を伏せる。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「よかった」
その言葉を聞き、縁之丞も自然と笑う。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
本子は身体を動かし、普段と同じ距離まで近づく。
二人の肩が、かすかに触れた。
「…………」
「…………」
以前なら、何とも思わなかった。
いつもなら、本子が肩へ頭を預けてくることさえある。
それなのに今日は、肩が触れただけで妙に意識してしまう。
本子も同じだったのか、少しだけ身体を固くした。
けれど、今度は離れなかった。
「結婚しても」
本子がぽつりと呟く。
「今と、あまり変わらなさそうだね」
「確かに」
縁之丞も頷く。
「家が一緒になるくらい?」
「毎日、本子がいる」
「今も大体毎日いるけどね」
「朝も一緒に学校へ行って」
「帰りも一緒に帰って」
「休みの日はゲームして」
「縁之丞が散らかした部屋を、私が片づける」
「何で俺が散らかす前提なんだよ」
「今も散らかってるから」
本子が、机の上へ積まれた漫画を指差した。
「これは、すぐ読むから置いてあるだけ」
「一番下の漫画、先月からそこにあるよ」
「よく覚えてるな」
「何度も来てるからね」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
先ほどまでの気まずさが、少しずつ消えていく。
もし結婚したとしても。
こんなふうに、くだらないことで言い合って。
一緒に食事をして。
ゲームをして。
同じ家へ帰る。
そんな未来なら、簡単に想像できた。
縁之丞は、大人になった本子が隣にいる姿を思い浮かべる。
どんな服を着ているのか。
どんな仕事をしているのか。
そこまでは、上手く想像できない。
けれど、当然のように隣にいることだけは分かった。
逆に。
本子がまったくいない未来の方が、縁之丞には想像できなかった。
きっと、本子も同じなのだろう。
「でもさ」
縁之丞が静かに言う。
「うん」
「それって、結婚したいってことなのかな」
本子は少し考えた後、小さく首を傾げた。
「どうだろう」
「本子が隣にいるのは、当たり前だと思ってる」
「私も」
「でも、それが好きってことなのかは分からない」
「うん」
「幼馴染だから、一緒にいたいのか」
「好きだから、一緒にいたいのか」
本子は膝の上へ頬杖をつく。
「そもそも、その違いがよく分からないね」
「だよな」
また、静かな時間が流れる。
けれど、今度の沈黙は先ほどまでとは違った。
答えは分からない。
それでも、互いに嫌われていないことだけは分かった。
その事実が、二人を少しだけ安心させていた。
◇
「二人ともー」
階下から、楓の声が聞こえた。
「もう遅いから、今日はこの辺で」
「はーい」
本子が返事をする。
二人は立ち上がり、部屋を出た。
階段を下りながら、縁之丞が本子へ声をかける。
「結局、ゲームしなかったな」
「今日は、ゲームどころじゃなかったから」
「次はやる?」
「もちろん」
「負けても抱きつくなよ」
「勝ったら考える」
「抱きつく気じゃん」
本子は楽しそうに笑う。
少しずつ、いつもの二人へ戻っていた。
けれど。
玄関で靴を履き、別れる時。
二人は自然と互いの顔を見つめた。
「じゃあ……また明日」
「うん。また明日」
いつもと同じ言葉なのに、なぜか少しだけ言いづらい。
本子は小さく手を振り、両親と共に霧島家をあとにした。
縁之丞は、その背中が見えなくなるまで見送る。
嫌ではない。
むしろ。
本子が隣にいる未来は、簡単に想像できた。
けれど。
それが結婚したいという気持ちなのか。
それとも、ただ幼馴染だからなのか。
二人には、まだ答えが分からなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
許嫁という言葉を知ってしまった今。
二人はもう、完全に今まで通りではいられなかった。




