第68話 知らない気持ち
本子は、その場から動けなかった。
目の前では。
女子マネージャーと縁之丞が話している。
ペットボトルを受け取り。
礼を言って。
少し笑う。
それだけのこと。
特別なことなんて何もない。
部員とマネージャー。
ただ、それだけの関係だ。
それなのに。
本子の胸は、ざわざわと落ち着かなかった。
◇
「また明日もお願いします」
「ああ」
たった、それだけの会話。
けれど。
その言葉が、本子の胸へ深く刺さる。
――また明日。
明日も。
明後日も。
県大会が終わるまで。
二人は毎日会う。
一緒に練習をして。
言葉を交わして。
笑い合う。
そんな光景が、頭の中へ勝手に浮かんでくる。
(……やだ)
心の奥で、小さな声がした。
どうして。
そんな言葉が浮かんだのか、自分でも分からない。
縁之丞は剣道部を手伝っているだけ。
マネージャーは自分の仕事をしているだけ。
何も悪いことなんてない。
頭ではちゃんと分かっている。
それでも。
胸の苦しさは消えてくれなかった。
◇
もし。
二人がもっと仲良くなったら。
放課後、一緒に帰るようになったら。
楽しそうに笑い合う時間が増えたら。
その隣にいるのが、自分ではなくなったら。
想像した瞬間。
「っ……」
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
苦しい。
息が浅くなる。
喉の奥が詰まったように苦しい。
目の前が少しだけ滲む。
声を掛けたい。
迎えに来たと伝えたい。
いつものように、
「一緒に帰ろう」
そう言えばいいだけなのに。
足が動かない。
喉が動かない。
どうしても、その一歩が踏み出せなかった。
(行かなきゃ)
(行かなきゃいけないのに)
心の中で何度も繰り返す。
それでも。
体は言うことを聞かなかった。
◇
ふと。
考えてしまう。
もし、いつか。
縁之丞が誰かと手を繋ぐ日が来たら。
誰かへ、今の自分に向けるような笑顔を向ける日が来たら。
危ない時には。
あの日、自分を守ってくれたように。
その人を抱き寄せて助けるのだろうか。
その想像だけで。
胸の奥が、痛い。
苦しくて。
苦しくて。
どうしようもなかった。
◇
こんな気持ちは初めてだった。
寂しいとも違う。
悲しいとも違う。
怒っているわけでもない。
胸の奥が締め付けられて。
息が苦しくなって。
何かを失ってしまうような不安だけが、大きくなっていく。
「……何なの」
小さく呟いても、答えは返ってこない。
本子はまだ知らない。
この胸の痛みの名前を。
そして。
この想いが大きくなるほど。
知らない気持ちは、もっと自分を苦しめていくことを。




