第62話 言えない
雨音だけが、傘の上で響いていた。
さっきまで、いつものように話していたはずなのに。
今は、どちらも口を開かない。
本子は縁之丞の腕へ、自分の腕を絡めたまま歩いている。
頬にはまだ。
縁之丞の指が触れた感覚が残っていた。
「……」
本子はそっと隣を見る。
縁之丞は前を向いたまま、傘を握っていた。
いつもと同じ横顔。
何も気にしていないように見える。
けれど。
先ほど顔が近づいた時。
縁之丞も、すぐには離れなかった。
それを思い出すと。
胸の奥が、また少しだけ熱くなる。
「本子」
「えっ?」
不意に名前を呼ばれ、本子は肩を揺らした。
「さっきから静かだけど」
「そうかな」
「そうだろ」
「雨の音を聞いてたの」
「さっきも言ってなかったか?」
「雨の日は、雨の音を聞くものなの」
「初めて聞いた」
「今、私が決めたから」
「適当だな」
縁之丞が小さく笑う。
本子も笑い返そうとした。
けれど。
いつものようには、うまく笑えなかった。
「本当にどうした?」
「何でもないよ」
「顔も赤いし」
「これは……」
本子は言葉に詰まる。
縁之丞の顔が近くにあったから。
頬へ触れられたから。
腕を組んで歩いていることが、嬉しいから。
言おうと思えば、理由はいくらでもあった。
でも。
どれも口には出せなかった。
「傘の中が暑いだけ」
「外、結構寒いぞ」
「くっついてるから暑いの」
言ってから。
本子は自分の言葉に気付いた。
「……」
「じゃあ、少し離れるか?」
縁之丞が腕を動かそうとする。
本子は反射的に、その腕を強く掴んだ。
「駄目」
「何でだよ」
「離れたら濡れるでしょ」
「さっきより雨、弱くなってるぞ」
「でも濡れるかもしれない」
「そうか?」
「そうなの」
本子は縁之丞の腕を離さないまま、少しだけ顔を伏せた。
本当は。
雨に濡れるからではなかった。
ただ。
もう少しだけ、こうしていたかった。
縁之丞のすぐ隣で。
腕を組んで。
同じ傘の下を歩いていたかった。
けれど。
そんなことを言えば。
どうして、と聞かれてしまう。
今の本子には、その理由をうまく説明できなかった。
「本子」
「何?」
「家、もうすぐだぞ」
本子は顔を上げる。
いつの間にか、見慣れた住宅街まで戻ってきていた。
二人の家も、もう遠くない。
「そっか」
「ああ」
雨は、少しずつ弱くなり始めている。
空も、先ほどより明るくなっていた。
このまま歩けば。
もうすぐ相合傘は終わってしまう。
本子は縁之丞の腕を、ほんの少しだけ強く抱いた。
「どうした?」
「何でもない」
「今日、そればっかりだな」
「何でもないものは、何でもないの」
「変な本子」
「うるさい」
本子は頬を膨らませる。
それから。
聞こえないほど小さな声で、呟いた。
「……もう少しだけ、降っててもいいのに」
「何か言った?」
「言ってない」
「今、何か言っただろ」
「雨の音じゃない?」
「そんなわけあるか」
本子は答えず。
縁之丞の腕へ、そっと頬を寄せた。
もう少し、このままでいたい。
その一言だけが。
どうしても、言えなかった。




