第61話 濡れてるよ
雨は、まだ止みそうになかった。
二人は一本の傘へ身を寄せながら、ゆっくりと歩いていく。
先ほど顔が近づいてから。
本子は、なかなか縁之丞の方を見ることができなかった。
腕は組んだままなのに。
肩も触れ合っているのに。
意識すればするほど、どう振る舞えばいいのか分からなくなる。
「本子」
「何?」
「さっきから下ばっかり見てるけど」
「水たまりを避けてるの」
「そんなにないだろ」
「あるよ」
「どこに?」
「探してるところ」
「何だよ、それ」
縁之丞が呆れたように笑う。
本子は顔を上げないまま、絡めた腕へ少しだけ力を込めた。
◇
しばらく歩いたところで、強い風が吹いた。
傘が大きく揺れ、端から雨粒が入り込んでくる。
「わっ」
「大丈夫か?」
「うん」
縁之丞は本子が濡れないよう、傘をさらに彼女の方へ傾けた。
そのせいで。
傘からはみ出した縁之丞の前髪へ、細かな雨粒が降りかかる。
本子はようやく隣を見上げた。
「縁之丞」
「何だ?」
「濡れてるよ」
「どこが?」
「髪」
本子が指差す。
縁之丞は空いている手で前髪へ触れた。
「これくらい平気だろ」
「平気じゃないよ」
「すぐ乾く」
「風邪引いたらどうするの?」
縁之丞は少し考えたあと、何でもないように答えた。
「その時は看病して」
本子は一瞬、きょとんとする。
「……私が?」
「昔もしてくれただろ」
「それは小さい頃の話でしょ」
「今はしてくれないのか?」
「そういうことじゃないけど」
「じゃあ頼む」
「まだ風邪引いてないじゃん」
「引いた時の話だ」
「調子に乗らないで」
本子は照れ隠しのように言いながら、鞄からハンカチを取り出した。
「少しかがんで」
「何で?」
「いいから」
縁之丞は不思議そうにしながらも、言われた通り少しだけ身体を屈める。
本子はハンカチを持った手を伸ばした。
濡れた前髪を、そっと押さえる。
「自分でできるぞ」
「動かないで」
「はいはい」
「返事は一回」
「細かいな」
本子は縁之丞の前髪へついた雨粒を、丁寧に拭いていく。
顔が近い。
けれど。
先ほどのように偶然近づいたわけではない。
今度は、本子が自分から手を伸ばした。
縁之丞の額へ触れそうな距離で。
髪へ指を添えながら。
その顔を、じっと見つめている。
「……本子?」
「何?」
「もう乾いただろ」
「あ」
本子は我に返り、慌てて手を離した。
「まだ少し濡れてたから」
「そうか?」
「そうなの」
使ったハンカチを畳みながら、本子は顔を伏せる。
縁之丞は前髪へ触れたあと、小さく笑った。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
その一言だけで。
本子の頬が、また少し熱くなる。
「本子も濡れてるぞ」
「え?」
縁之丞が、本子の頬へ手を伸ばす。
親指で、頬についていた小さな雨粒を拭った。
「ここ」
「……」
「どうした?」
「何でもない」
本子は縁之丞の腕を掴み直し、前を向いた。
「帰ろ」
「ああ」
二人は再び歩き始める。
一本の傘の下。
肩を寄せ。
腕を組みながら。
距離は、先ほどまでと変わらない。
けれど。
本子の頬には。
縁之丞の指が触れた感覚だけが、いつまでも残っていた。




