第60話 近い
雨は、ますます強くなっていた。
風まで吹き始め、縁之丞の持つ傘が大きく揺れる。
「うわっ」
縁之丞は飛ばされないよう、慌てて柄を握り直した。
本子も絡めていた腕へ力を込める。
「大丈夫?」
「ああ」
「傘、ひっくり返りそうだったね」
「折りたたみだからな」
「頑張って」
「傘に言え」
「縁之丞に言ってるの」
二人は身体を寄せ合ったまま、雨の中を歩き続ける。
けれど。
再び強い風が吹いた。
「本子、危ない」
「えっ?」
縁之丞が本子の肩を抱き、自分の方へ引き寄せる。
同時に、本子も雨を避けようと顔を上げた。
その瞬間。
二人の顔が、すぐ近くで向かい合った。
「……」
「……」
足が止まる。
互いの息が触れそうなほど近い。
本子は目を見開いたまま、縁之丞の顔を見つめていた。
いつも見ている顔。
幼い頃から、数え切れないほど見てきた顔。
それなのに。
こんなに近くで見つめると、まるで違う人のように思えた。
少し濡れた前髪。
雨を警戒する真剣な目。
自分の肩を抱いている腕。
あの日。
車から助けられた時のことが、不意に頭をよぎる。
必死に名前を呼ぶ声。
自分を守るように抱き締めてくれた腕。
胸へ顔を寄せた時に聞こえた、激しい鼓動。
ほんの数日前のことなのに。
今も、はっきりと思い出すことができた。
本子の頬が、少しずつ熱くなる。
「……近いね」
本子が小さく呟いた。
「ああ」
縁之丞も短く答える。
けれど。
すぐには離れなかった。
雨に濡れないためなのか。
突然のことで、動けなかっただけなのか。
二人にも分からない。
本子は縁之丞の目を見たまま、瞬きをする。
縁之丞も、珍しく視線を逸らさなかった。
映画で見たような。
顔を近づけ。
そのまま口づけを交わす二人。
あの場面が、本子の頭に浮かぶ。
「……」
縁之丞の唇へ、一瞬だけ視線が落ちた。
自分が何を見たのか気付いた途端。
本子は慌てて顔を背ける。
「ご、ごめん」
「何が?」
「近すぎたから」
「雨を避けただけだろ」
「そうだけど」
縁之丞は本子の肩から腕を離した。
けれど。
腕を組んだままの本子は、その場を離れない。
「歩くぞ」
「うん」
二人は再び歩き始める。
先ほどまでと同じように。
一本の傘へ入り。
肩を寄せ。
腕を組んで。
同じ帰り道を歩いている。
距離は、何も変わっていなかった。
けれど本子は。
もう、縁之丞の顔を見ることができなかった。
「本子」
「何?」
「顔、赤いぞ」
「赤くない」
「さっきも言ってたな、それ」
「雨のせい」
「雨で顔が赤くなるのか?」
「なる時もあるの」
「変なの」
「うるさい」
本子は縁之丞の腕へ、少しだけ顔を隠すように寄り添った。
縁之丞は不思議そうに本子を見る。
けれど。
それ以上は何も聞かなかった。
雨音が傘を叩く。
二人の距離は、相変わらず近いまま。
ただ。
本子にとっては。
その近さを、もう昔のように何とも思わずにはいられなかった。




