第55話 愛の力
翌日。
昨日の出来事は、あっという間に学校中へ広まっていた。
事故が起きたのは、縁之丞が剣道部の練習相手を終えて帰る途中だった。
すでに通常の下校時間は過ぎていたものの、周囲には同じように部活動を終え、帰宅する生徒たちが何人かいた。
その生徒たちは見ていた。
本子へ向かって、右折してきた車が迫るところを。
そして。
縁之丞が迷わず飛び込み、本子を抱き締めるようにして助けた瞬間も。
「聞いた?」
「霧島が鬼灯を車から助けたらしいよ」
「俺、昨日見た奴から聞いた」
「本当に直前だったらしいぞ」
朝から教室は、その話題でもちきりだった。
「反応、速すぎだろ」
「車が来た瞬間に飛び出したらしいぞ」
「昨日も剣道部へ行ってたんだろ?」
「やっぱり、剣道やってる奴は違うな」
「中学の頃、有名だったらしいよ」
「一年とは思えない身体能力だよな」
縁之丞は自分の席へ座ったまま、聞こえてくる会話に小さく息を吐いた。
「大げさだって」
「でも、本当に助けたんだろ?」
「まあ」
「鬼灯を抱えて、転がるように避けたって聞いたぞ」
「転がってない」
「抱き締めて守ったんだろ?」
「守ろうとしたら、そうなっただけだ」
縁之丞が否定すると、近くにいた男子生徒がにやりと笑った。
「でもさ」
「何だよ」
「やっぱり、恋人だからじゃね?」
「あー、それある」
「愛の力ってやつ?」
「ひゅーひゅー!」
教室へ楽しそうな笑い声が広がった。
「違う」
縁之丞は即座に否定する。
「剣道のおかげだ」
「身体が勝手に動いただけだから」
「はいはい」
「照れんなって」
「青春だねぇ」
「本当に違うから」
どれだけからかわれても、縁之丞は本気でそう思っていた。
長年積み重ねてきた稽古。
何度も繰り返した反復練習。
相手の動きを見て。
考えるよりも先に身体を動かす。
その経験が、昨日の自分を動かしたのだと。
◇
「本子も、そう思うよな?」
縁之丞が助けを求めるように尋ねる。
本子は自分の席へ座ったまま、少しだけ目を瞬いた。
「何が?」
「昨日のこと」
「剣道をやってたから間に合ったんだよ」
「そうかもしれないけど」
「だろ?」
「でも」
本子は縁之丞を見る。
「それだけじゃないと思う」
「何が?」
本子はすぐには答えなかった。
思い出すのは、自分の腕を掴んだ手。
迷いなく飛び込んできた身体。
自分を庇うように、強く抱き締めてくれた腕の温もり。
迫ってくる車を見ても。
縁之丞は、自分だけ逃げようとはしなかった。
危険だと分かっていながら、本子のところへ来てくれた。
確かに。
間に合ったのは、剣道の稽古を続けてきたからかもしれない。
けれど。
その身体を本子のために動かしたのは、縁之丞自身だった。
「縁之丞が」
本子は少しだけ頬を赤くしながら言う。
「私を助けようとしてくれたからでしょ」
「それは、そうだけど」
「だったら」
本子は小さく笑った。
「愛の力かもしれないよ?」
縁之丞の動きが止まった。
近くで会話を聞いていたクラスメイトたちも、一瞬だけ静かになる。
「本子」
「何?」
「そういうこと、教室で言うなよ」
「どうして?」
「恥ずかしいだろ」
「縁之丞も」
本子は楽しそうに首を傾げる。
「愛の力だったって認めるの?」
「認めてない」
「顔、赤いよ」
「赤くない」
「赤い」
「事故の話は、もう終わり!」
縁之丞が声を上げる。
直後。
教室中から、再び歓声が上がった。
「愛の力だって!」
「本人公認!」
「違うって!」
「鬼灯、よかったな!」
「ありがとう?」
「本子も乗るな!」
本子は騒がしくなる教室の中で、楽しそうに笑っていた。
剣道のおかげだったのか。
愛の力だったのか。
本当のところは、誰にも分からない。
けれど。
本子の胸に残っていたものは、一つだけだった。
縁之丞が。
何の迷いもなく。
自分を守ろうとしてくれた。
その事実だけで。
今は、十分だった。




