第24話 呼び方
「次は何する?」
本子が首を傾げる。
縁之丞も歩きながら腕を組んだ。
「恋人らしいこと……か」
「写真は撮ったし」
「手も繋いだ」
「デートもした」
「好きとも言った」
「…………」
「…………」
二人は先日の喫茶店を思い出し、揃って顔を逸らした。
「それは、もういい」
「俺も」
「ほかに何かないかな」
本子はしばらく考えた後、何かを思いついたように顔を上げた。
「呼び方とか?」
「呼び方?」
「恋人になったら、呼び方を変える人もいるよね」
「ああ」
苗字から名前へ。
名前から愛称へ。
恋人同士だけの特別な呼び方へ変える。
確かに、恋人らしいことの一つかもしれない。
「じゃあ、やってみるか」
「うん」
二人は足を止め、向かい合った。
「まずは普通に」
本子が少しだけ姿勢を正す。
「縁之丞君」
「…………」
「どう?」
縁之丞は露骨に顔をしかめた。
「気持ち悪い」
「失礼」
「何か、急に他人行儀になった」
「君をつけただけだよ」
「本子に呼ばれると変だな」
「じゃあ、次は縁之丞の番」
縁之丞は本子を見つめる。
「本子ちゃん」
本子は両腕をさすった。
「やめて」
「何で?」
「鳥肌立った」
「そこまでか?」
「そこまで」
「お互い様だろ」
二人は揃ってため息をついた。
「君とちゃんは駄目だな」
「距離が遠くなった感じがする」
「恋人らしくするはずなのに?」
「むしろ、知り合ったばかりみたい」
本子は少し考え、別の呼び方を試す。
「霧島君」
「さらに遠くなった」
「同じクラスになった初日の呼び方みたい」
「本子は初日から縁之丞だっただろ」
「そうだっけ?」
「入学式の日も、普通に名前で呼んでた」
「じゃあ」
縁之丞も真似するように言った。
「鬼灯さん」
「誰?」
「本子」
「そんな呼び方されたことない」
「俺も霧島君なんて呼ばれた記憶ないぞ」
「やっぱり苗字は駄目だね」
「俺たち、最初から名前で呼んでたからな」
本子は幼い頃のことを思い出そうとする。
「最初は、何て呼んでたんだろ」
「覚えてない」
「赤ちゃんの頃は、名前をちゃんと言えなかったよね」
「本子が俺のことを『えん』って呼んでたらしいぞ」
「縁之丞が長いから」
「本子は二文字なのに、俺は『もこ』って呼んでたらしい」
「一文字減ってる」
「赤ん坊に言ってくれ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「じゃあ、昔の呼び方に戻してみる?」
本子が楽しそうに言う。
「えん」
「嫌だ」
「即答」
「赤ん坊みたいだろ」
「じゃあ、俺も」
縁之丞は少しだけ笑う。
「もこ」
「やめて」
「本子が先に言ったんだろ」
「今の私に似合わない」
「えんも今の俺には似合わない」
「じゃあ、これはなし」
「賛成」
幼い頃の呼び方は、すぐに却下された。
◇
本子はまだ諦めず、腕を組んで考える。
「ニックネームで呼び合う恋人もいるよね」
「例えば?」
「縁之丞だから……」
本子は少し迷った後、口を開く。
「えっくん」
「…………」
「…………」
長い沈黙が流れた。
縁之丞は何とも言えない表情で本子を見る。
「今、自分で言ってどうだった?」
「忘れたい」
「俺も聞かなかったことにしたい」
「まだ一個目だよ」
「もう十分じゃない?」
「縁之丞も考えて」
「本子だから……」
縁之丞も少し考えた。
「もっちゃん」
「…………」
「…………」
先ほどよりも長い沈黙が流れる。
本子がゆっくりと首を横へ振った。
「それはない」
「えっくんもないだろ」
「えっくんの方がまし」
「どこが?」
「少なくとも、もっちゃんよりは」
「同じくらいだろ」
「一緒にしないで」
「どっちも駄目だよ」
二人は同時に息を吐いた。
「もっと可愛い愛称にしよう」
「まだ続けるの?」
「研究だから」
「都合のいい時だけ研究って言うなよ」
本子は縁之丞の名前を頭の中で分解する。
「縁之丞……縁……」
「縁君?」
「それなら、まだ普通だな」
「じゃあ呼んでみる」
本子は縁之丞の顔を見つめた。
「縁君」
「…………」
「どう?」
「誰のことか、一瞬分からなかった」
「名前の最初なのに?」
「本子に呼ばれたことないから」
「私も変な感じ」
「じゃあ、本子は」
縁之丞も考える。
「本ちゃん」
「本みたい」
「子ちゃん」
「もっと変」
「もとちゃん」
「それなら、まだ……」
本子は言いかけて、顔をしかめる。
「やっぱり嫌」
「何ならいいんだよ」
「本子」
「いつも通りじゃん」
「それが一番いいかも」
本子は苦笑した。
◇
「恋人っぽい呼び方って難しいな」
「私たち、最初から下の名前で呼び合ってるからね」
「今さら変えようがない」
「確かに」
苗字で呼べば遠すぎる。
君やちゃんをつけても、他人行儀に感じる。
愛称を作れば、気持ち悪くなる。
恋人らしい呼び方を探していたはずなのに。
結局、昔からの呼び方より自然なものは見つからなかった。
本子が小さく息を吐く。
「もう戻そう」
「賛成」
本子は改めて、隣にいる幼馴染の名前を呼ぶ。
「縁之丞」
「何?」
いつもの返事。
何千回、何万回と繰り返してきたやり取り。
呼べば、必ずこちらを向く。
遠くにいても。
人混みの中でも。
本子の声なら、縁之丞はすぐに気づく。
「やっぱり、これが一番しっくりくる」
「そうだな」
今度は縁之丞が呼ぶ。
「本子」
「うん」
本子も、何の迷いもなく返事をした。
昔から変わらない呼び方。
特別な愛称でもなければ。
恋人だけが使う甘い呼び方でもない。
けれど。
互いの名前を、これほど当たり前に呼べる相手はほかにいなかった。
「でもさ」
縁之丞が言う。
「何?」
「呼び方を変えなくても、呼ぶ時の気持ちが変われば違うんじゃない?」
本子は少しだけ目を見開く。
「どういうこと?」
「幼馴染として呼ぶのと、恋人として呼ぶのは違うんだろ?」
「写真の時と同じ?」
「多分」
「じゃあ」
本子は縁之丞と向かい合った。
少しだけ意識して。
幼馴染ではなく、恋人として名前を呼んでみる。
「縁之丞」
「…………」
呼び方は、いつもと同じだった。
声も、それほど変わっていない。
それなのに。
縁之丞は、ほんの少しだけ胸が落ち着かなくなった。
「何?」
「どうだった?」
「少しだけ変だった」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
「そっか」
「次は俺?」
「うん」
縁之丞も、本子の顔を見る。
恋人として。
そう意識しながら、名前を呼ぶ。
「本子」
「…………」
「どう?」
本子は一度だけ目を伏せた。
「ちょっと照れた」
「呼び方は同じなのに?」
「縁之丞も変だったんでしょ」
「少しだけ」
二人は顔を見合わせる。
やがて、どちらからともなく笑った。
「やっぱり変えなくていいね」
「ああ」
「縁之丞は縁之丞」
「本子は本子」
「それが一番」
二人は再び並んで歩き始めた。
◇
帰り道。
本子は夕焼けに染まる空を見上げ、小さく息を吐く。
今日も、恋人らしい新しいことは見つからなかった。
呼び方も。
結局、昔から何一つ変わっていない。
(恋人って……)
(難しいな)
研究としては、また失敗だったのかもしれない。
けれど。
縁之丞に、恋人として名前を呼ばれた瞬間。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
本子は隣を歩く縁之丞を見る。
「縁之丞」
「何?」
「呼んだだけ」
「何だよ、それ」
「別にいいでしょ」
「まあ、いいけど」
本子は小さく笑った。
呼び方は変わらない。
けれど。
名前を呼んだ時に感じるものは。
少しずつ、昔とは変わり始めていた。




