第19話 初めてのデート?
数日後。
県大会出場を懸けた地区予選の当日。
会場となった体育館には、竹刀がぶつかる鋭い音と、選手たちの気合いの声が響いていた。
団体戦。
先鋒、霧島縁之丞。
縁之丞は面をつけ、竹刀を手に試合場へ上がる。
相手選手と向かい合い、静かに構えた。
相手は、縁之丞が帰宅部から呼ばれた助っ人だと聞いているのか。
不用意には近づかず、様子を窺うように竹刀の先を動かしていた。
「始め!」
開始の合図が響く。
相手が間合いを詰めようと、わずかに重心を前へ移した。
その瞬間。
縁之丞の身体が動いた。
「面!」
鋭い踏み込み。
乾いた音が体育館へ響き、竹刀が正確に相手の面を捉える。
「面あり!」
一本。
会場がわずかにざわついた。
「速い」
「今の、ほとんど見えなかったぞ」
試合が再開される。
相手選手は、先ほどよりも慎重に間合いを取った。
簡単には踏み込まず、竹刀の先を動かしながら、縁之丞の反応を探る。
けれど、縁之丞は焦らない。
相手の呼吸。
足の位置。
肩に入る力。
竹刀のわずかな揺れ。
そのすべてを静かに見ていた。
相手の竹刀が上がる。
小手を狙うと見せかけ、面へ切り替えようとした瞬間。
縁之丞は一歩で間合いへ入った。
「胴!」
鋭い音が響く。
「胴あり!」
二本目。
「勝負あり!」
開始から、ほとんど時間はかからなかった。
互いに礼を交わし、縁之丞が試合場を下りる。
控えていた剣道部員たちは、安堵したように息を吐いた。
「やっぱり強すぎるだろ」
「帰宅部の動きじゃない」
「本当に、しばらく部活で練習してなかったんだよな?」
「家では剣術をやってるから」
「それでも、普通は試合勘が鈍るだろ」
「少しは鈍ってるよ」
「どこがだよ」
縁之丞は面を外しながら、小さく肩をすくめた。
「次、頑張れよ」
「ああ」
次の選手が力強く頷く。
「先鋒で作ってくれた流れ、絶対に無駄にしない」
縁之丞は何も言わず、軽く拳を差し出した。
相手もその拳へ自分の拳を重ね、試合場へ向かっていった。
◇
二試合目。
三試合目。
縁之丞は、危なげなく勝利を重ねた。
試合が進むにつれ、対戦相手にもその名前が知れ渡っていく。
「次の先鋒、霧島だぞ」
「中学の時に有名だった選手だ」
「高校では剣道部じゃなかったんじゃないのか?」
「人数が足りなくて、助っ人に呼ばれたらしい」
「何で帰宅部が出てるんだよ……」
相手選手たちは、縁之丞と向かい合う前から緊張を隠せなくなっていた。
先鋒で勢いを奪われれば、続く選手たちにも焦りが生まれる。
一方。
縁之丞が一本を取るたび、聖フェリス学園の部員たちからは緊張が消えていった。
縁之丞が作った流れを、仲間たちも最後まで守り抜く。
そして。
聖フェリス学園剣道部は地区予選を突破し、県大会への出場を決めた。
◇
試合後。
縁之丞が防具を片づけていると、剣道部員たちが一斉に駆け寄ってきた。
「霧島!」
「本当に助かった!」
「ありがとう!」
「お前が先鋒で勝ってくれたから、めちゃくちゃ楽だった!」
部員の一人が、縁之丞の肩へ腕を回す。
「やっぱり、剣道部に戻らないか?」
「戻らない」
「即答するなよ!」
「地区予選までって約束だっただろ」
「そこを何とか」
「嫌だ」
「毎日じゃなくてもいいから!」
「前にも同じこと言ってたな」
「週に三日!」
「帰宅部じゃなくなるだろ」
「週に一日!」
「交渉の仕方がおかしい」
周囲から笑い声が上がる。
部長は、まだ諦めきれない様子で縁之丞の肩を掴んだ。
「次は県大会だぞ」
「頑張ってください」
「お前も出るんだよ」
「出ない」
「大会前になったら、もう一度頼みに行くからな」
「来る前提なんですか?」
「お前は結局、困ってたら断れない」
「そんなことないです」
「今回も断れなかっただろ」
「……今回は特別です」
「次も特別にする」
「ずるくないですか?」
縁之丞は呆れたように言いながらも、少しだけ笑っていた。
剣道部へ戻るつもりはない。
毎日道場へ通う生活を再開するつもりもなかった。
けれど。
久しぶりに仲間と試合へ出て。
同じ勝利を喜び合った時間は。
思っていたよりも悪くなかった。
◇
週明け。
学校では、地区予選の話題でもちきりになっていた。
「知ってる?」
「帰宅部の霧島君、中学の剣道で有名だったらしいよ」
「地区予選も、すごかったんだって」
「相手の選手、みんな霧島君を警戒してたらしいよ」
「先鋒で完全に流れを持っていったんでしょ?」
「格好いい!」
「剣道部じゃないの、もったいないよね」
「普段は普通なのに、意外すぎる」
廊下でも。
教室でも。
縁之丞の名前が聞こえてくる。
本人の周囲にも、普段はあまり話したことのない生徒たちが集まっていた。
「霧島君、本当に剣道強かったんだね」
「中学の時、何段だったの?」
「県大会にも出るの?」
「いや」
縁之丞は少し困ったように答える。
「助っ人は、地区予選までの約束だったから」
「えー、もったいない」
「また見たかったのに」
「剣道部に入ればいいのに」
「毎日練習するのは面倒だから」
「その理由で入らないの?」
「うん」
あまりにも迷いのない返事に、周囲から笑い声が上がった。
本子は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
縁之丞が褒められている。
それ自体は、昔から何度もあった。
剣道の試合で勝った時も。
体育の授業で活躍した時も。
本子は、自分のことのように嬉しく思っていた。
今も、その気持ちは変わらない。
縁之丞が頼られ。
実力を認められ。
多くの人から褒められている。
本来なら、ただ嬉しいはずだった。
けれど。
「霧島君って、結構格好いいよね」
「分かる」
「普段は目立たないけど、ああいう時すごいよね」
「彼女いるのかな?」
「いないんじゃない?」
「じゃあ、今度話しかけてみようかな」
女子生徒たちの声が聞こえた瞬間。
本子の胸の奥が、わずかにざわついた。
(……まただ)
以前は。
縁之丞の格好よさを、ほかの女子にも知られたことが落ち着かなかった。
けれど今は。
その女子たちが、縁之丞を恋愛相手として見ている。
彼女がいないなら、自分にも可能性がある。
そんな話をしている。
縁之丞が誰と話そうと、本人の自由だ。
本子には、止める権利などない。
恋人ごっこをしているだけで、本当の恋人でもない。
そう分かっているのに。
何となく。
早くこちらへ戻ってきてほしいと思ってしまう。
「本子」
「え?」
声をかけられ、本子は顔を上げた。
いつの間にか、縁之丞が目の前に立っていた。
「何、ぼーっとしてるんだ?」
「別に」
「そう?」
「話、終わったの?」
「ああ」
縁之丞は疲れたように息を吐く。
「慣れないやつに一気に話しかけられると疲れる」
「女の子ばっかりだったけど」
「そうだったか?」
本子は縁之丞の顔を見る。
「気づいてなかったの?」
「何が?」
「……何でもない」
「またそれか」
「何?」
「最近、本子が『何でもない』って言うこと、増えた気がする」
「気のせいだよ」
「そう?」
「そう」
本子は顔を逸らした。
その胸の奥にあったざわつきが、いつの間にか消えている。
縁之丞が、自分のところへ戻ってきたから。
けれど本子は。
そのことに、まだ気づかなかった。
◇
放課後。
二人は、いつものように並んで帰っていた。
「大会、どうだった?」
本子が尋ねる。
「疲れた」
「それだけ?」
「県大会に進めたから、よかったと思う」
「相変わらず感想が薄いね」
「本子は見に来なかっただろ」
「家の稽古があったんだもん」
「そういえば、父さんから聞いた」
「稽古が終わってからは、家で応援してたよ」
「絶対、ゲームしてただろ」
「応援しながらゲームしてた」
「ほとんどゲームじゃねえか」
「結果は、ちゃんと気にしてたよ」
「誰から聞いたんだ?」
「おじさん」
「何で父さんが、本子に先に連絡してるんだよ」
「両家の連絡網」
「そんなものあるの?」
「お母さんたちの中には、絶対あると思う」
「怖いな」
「縁之丞が知らないことも、全部共有されてるかもね」
「本気で怖いこと言うなよ」
本子は悪びれることなく笑った。
縁之丞も、つられて笑う。
しばらく。
二人はいつものように、くだらない話をしながら歩いた。
やがて。
本子が、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
「何?」
「私たち」
本子は少しだけ考えてから続けた。
「恋人ごっこを始めてから、ちゃんとデートしてなくない?」
縁之丞は不思議そうに首を傾げる。
「デート?」
「うん」
「二人で、どこかへ遊びに行ったりするやつ」
「それなら、今まで何回も行ってるだろ」
「駅前にも行ったし」
「映画も見たし」
「動物園にも行った」
「それは、幼馴染としてのお出かけ」
本子は首を横へ振った。
「恋人としてのデートじゃない」
「違いある?」
「……あると思う」
「思う?」
「多分」
「分からないのかよ」
「縁之丞は分かるの?」
「分からん」
二人は顔を見合わせた。
数秒の沈黙が流れる。
恋人と出かけることと。
幼馴染と出かけること。
二人で歩き。
二人で買い物をして。
二人で食事をする。
やること自体は、ほとんど変わらない。
「服装とか?」
本子が言う。
「服装?」
「デートなら、少しおしゃれするんじゃない?」
「いつもと違う服を着るだけで、デートになるのか?」
「雰囲気も大事なんじゃない?」
「雰囲気って何だよ」
「分からない」
「何も分からないじゃねえか」
本子は耐えきれずに笑った。
「だから、一回やってみない?」
「何を?」
「デート」
本子は、わずかに首を傾げる。
「恋人らしいデートをしたら、普通のお出かけとの違いが分かるかもしれないよ」
「なるほど」
縁之丞は真面目な表情で頷いた。
「恋人ごっこの研究だな」
「デートを研究扱いする人、初めて見た」
「本子が、違いを確かめるって言ったんだろ」
「そうだけど」
「それで、どこへ行く?」
「駅前でいいんじゃない?」
「いつもと同じじゃないか?」
「デートだと思って行けば違うの」
「本当か?」
「多分」
「また多分かよ」
二人は笑い合う。
「じゃあ、次の日曜日」
「駅前に十時」
「了解」
それだけなら、いつもの約束と何も変わらなかった。
けれど。
今度の日曜日は、幼馴染として遊びに行くのではない。
恋人ごっこを始めてから。
初めてのデートだった。
◇
日曜日。
駅前の待ち合わせ場所。
縁之丞は、約束より少し早く到着していた。
休日の駅前には、多くの人が行き交っている。
友人同士で待ち合わせる者。
家族で出かける者。
少し離れた場所には、手を繋いで歩く男女の姿もあった。
恋人らしいデート。
そう言われても、何をすればいいのかは分からない。
駅前で待ち合わせて。
買い物をして。
食事をする。
やはり、普段の外出と何も変わらない気がした。
「縁之丞」
聞き慣れた声に呼ばれ、縁之丞は顔を上げる。
本子が、こちらへ向かって歩いてきていた。
その姿を見た瞬間。
縁之丞の目が止まった。
(……あれ)
いつもより少し明るい色の服。
柔らかな色合いの上着に、膝丈のスカート。
髪も、普段より丁寧に整えられている。
唇にも、わずかに色がついているように見えた。
見慣れているはずの本子。
幼い頃から、数え切れないほど顔を見てきた相手。
それなのに今日は。
一瞬だけ、知らない女の子のように感じた。
本子が笑顔で手を振る。
「待った?」
「……いや」
縁之丞は少し遅れて答えた。
「今来たところ」
「嘘」
「何で分かるんだよ」
「縁之丞、待ち合わせの時間より早く来るから」
「本子が遅れるかもしれないだろ」
「今日は遅れてないよ」
「今日はって、自覚あるんだな」
「たまにだよ」
本子は縁之丞の前で立ち止まった。
「どうしたの?」
「何が?」
「さっきから、じっと見てる」
指摘され、縁之丞はわずかに視線を逸らす。
「いや」
「今日は、いつもと雰囲気が違うなと思って」
「変?」
「変じゃない」
「じゃあ、どう?」
本子は少しだけ身体を傾け、縁之丞の顔を覗き込んだ。
どう。
そう聞かれても、縁之丞には何と答えるのが正解なのか分からない。
「いつもより」
「うん」
「ちゃんとしてる」
本子の笑顔が消えた。
「ちゃんとしてる?」
「いつもが、ちゃんとしてないみたいなんだけど」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「何て言えばいいんだよ」
縁之丞は困ったように頭をかく。
「似合ってると思う」
本子が、わずかに目を見開く。
「本当?」
「ああ」
「可愛い?」
「そこまで聞くのかよ」
「デートだから」
「デートだと、聞いていいのか?」
「いいの」
縁之丞は、本子の姿をもう一度見る。
確かに似合っている。
いつもより、少しだけ大人びて見えて。
素直に、可愛いと思った。
けれど。
それを口にするのは、妙に恥ずかしい。
「……可愛いんじゃないか」
「何、その言い方」
「言っただろ」
「もっと普通に言えないの?」
「無理」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
思わず正直に答えてしまい、縁之丞はさらに視線を逸らした。
本子は一瞬驚いた後、頬をわずかに赤くして笑う。
「そっか」
「何だよ」
「何でもない」
「今度は本子が、それ言うのか」
「いいでしょ」
本子は少し照れながら、縁之丞の服装を見る。
「私も」
「何?」
「縁之丞、いつもより格好いいと思うよ」
「服、普段と同じだけど」
「今日はデートだから」
「それだけで変わるのか?」
「変わるんじゃない?」
二人は互いの顔を見る。
いつもと同じ相手。
いつもと同じ駅前。
それなのに。
デートだと意識しただけで、今日は少しだけ空気が違って感じられた。
「じゃあ」
縁之丞は気恥ずかしさを誤魔化すように、小さく息を吸う。
「行くか」
「うん」
「デート開始」
「何、その掛け声」
「始まったって分かりやすいだろ」
「本当に雰囲気ないね」
「雰囲気って、どうやって出すんだよ」
「それを今から調べるの」
「やっぱり研究じゃん」
本子は笑いながら、縁之丞の隣へ並んだ。
初めてなのか。
それとも、何度目なのか。
二人にも分からないデートが。
こうして始まった。




