第18話 幼馴染だけが知る顔
練習が終わった。
道場のあちこちで、防具を外す音や竹刀を片づける音が響いている。
縁之丞と地稽古をした部員たちは、疲れた様子で床へ座り込んでいた。
「本当に久しぶりだったんですか?」
「一回も一本取れなかった……」
「大会、絶対勝てますよ」
そんな中。
道場の入口付近から、女子生徒たちの楽しそうな声が聞こえてきた。
「霧島君、すごかったね」
「帰宅部なんでしょ?」
「もったいない!」
「剣道部に入ればいいのに」
「構えてる時、すごく格好よかった」
練習を見学していた女子生徒たちだった。
本子は少し離れた場所で、その会話を何気なく聞いていた。
縁之丞が褒められている。
本来なら、嬉しいことのはずだった。
縁之丞が強いことは、昔から知っている。
その実力を他の人にも認めてもらえるのは、悪いことではない。
それなのに。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
(……何だろう)
別に、女子生徒たちが嫌いなわけではない。
縁之丞へ話しかけるなとも思わない。
ただ。
自分だけが知っていたものを、急に誰かに見つけられてしまったような。
そんな落ち着かない気持ちが残った。
「霧島君!」
一人の女子生徒が、縁之丞へ声をかける。
面を外した縁之丞が振り返った。
「何?」
「本当に剣道部へ入らないの?」
「入らないよ」
「どうして? あんなに強いのに」
「毎日練習するの、面倒だから」
「もったいない!」
「よく言われる」
縁之丞は、困ったように笑う。
先ほどまでの鋭い雰囲気は、もうどこにもなかった。
いつもの少し気の抜けた顔。
けれど、女子生徒たちはその笑顔を見て、さらに楽しそうに声を弾ませる。
「大会、応援に行ってもいい?」
「剣道部の応援なら、いいんじゃない?」
「霧島君の応援だよ」
「俺だけ?」
「うん」
「何で?」
縁之丞は、本気で意味が分からないように首を傾げた。
女子生徒たちは顔を見合わせ、くすくすと笑う。
「霧島君って、そういう感じなんだ」
「どういう感じ?」
「何でもない」
本子は少しだけ頬を膨らませた。
(……本当に、そういうところ)
昔から、縁之丞は女子に人気があった。
けれど本人には、その自覚がまるでない。
好意を向けられても気づかず、普通に話してしまう。
相手が勇気を出して近づいていることさえ、理解していない。
それを誰よりも知っているのは、本子だった。
だが今日は。
その鈍さに、なぜか少しだけ腹が立った。
◇
女子生徒たちとの会話を終えた縁之丞は、道場の隅へ移動した。
タオルで額の汗を拭きながら、大きく息を吐く。
「疲れた……」
竹刀を握っていた時とは、まるで別人だった。
背筋は少し丸まり。
表情からは緊張が抜け。
今にも床へ寝転がりそうなほど、気が緩んでいる。
本子は、その背中を見つめた。
女子生徒たちが格好いいと褒めていた、剣道をしている時の縁之丞。
静かで。
鋭くて。
誰にも隙を見せない縁之丞。
けれど。
練習が終われば、すぐにいつもの縁之丞へ戻る。
面倒くさがりで。
少しだらしなくて。
本子が近づいても、まるで気づかない。
その無防備な背中を見ていると、胸のざわつきが少しだけ治まった。
本子は口元を緩める。
足音を立てないよう、縁之丞の背後へ近づいた。
縁之丞はタオルで髪を拭いている。
本子がすぐ後ろまで来ても、まったく気づかない。
そっと両手を伸ばし。
縁之丞の目を覆った。
「だーれだ」
「うわっ!」
縁之丞の肩が、大きく跳ねる。
「びっくりした!」
本子は堪えきれずに笑った。
「本子!」
「正解」
「他にいないだろ!」
「さっき女の子たちに囲まれてたから、別の人かもしれないよ?」
「何であの人たちが目を隠すんだよ」
「知らない」
本子が手を離すと、縁之丞は振り返った。
「いつからいた?」
「さっきから」
「全然気づかなかった」
「試合では、あんなに反応が速いのにね」
「本子だけは、気配が全然分からないんだよ」
「普通に歩いてきただけだけど?」
「絶対嘘だろ」
「本当だよ」
「じゃあ、何で足音がしないんだよ」
「縁之丞が油断してるから」
「まあ……」
縁之丞は少し考え、苦笑した。
「本子なら大丈夫だと思ってるからかもな」
本子の表情が、わずかに止まった。
「私なら?」
「ああ」
「背後にいても?」
「本子が後ろから襲ってくるわけないだろ」
「分からないよ?」
「何するんだよ」
「目を隠す」
「今やっただろ」
「じゃあ、成功だね」
本子は満足そうに笑った。
剣道では、誰にも隙を見せない。
相手のわずかな動きさえ見逃さない。
そんな縁之丞が。
自分にだけは、簡単に背後を許してしまう。
それは昔から変わらないことだった。
けれど今日は。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
◇
帰り道。
二人は、いつものように並んで歩いていた。
練習を終えた縁之丞は、竹刀と借りた防具を持っている。
「久しぶりだったけど、強かったね」
本子が言う。
「そう?」
「誰も一本取れなかったでしょ」
「たまたまだよ」
「たまたまで全員に勝てるわけないよ」
「中学の時よりは遅くなってた」
「誰も分からないと思う」
「俺には分かる」
「変なところだけ真面目だね」
「変なところって何だよ」
本子は小さく笑う。
それから、少しだけ迷った後で続けた。
「女の子たちも見てたよ」
「剣道部の応援じゃないの?」
本子は思わず足を止めた。
縁之丞も数歩進んだ後、振り返る。
「どうした?」
「……そういうところ」
「何が?」
「何でもない」
本子は再び歩き始める。
縁之丞も意味が分からないまま、その隣へ並んだ。
「何か怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、何で少し歩くの速いんだよ」
「縁之丞が遅いだけ」
「防具持ってるんだけど」
「剣道が強いなら、それくらい平気でしょ」
「理不尽じゃない?」
本子は答えない。
少しだけ歩いた後、縁之丞の持っている竹刀へ視線を向けた。
「でも」
「何?」
「本当に格好よかったよ」
「剣道が?」
「うん」
「昔から見てるだろ」
「昔から格好いいと思ってたよ」
縁之丞が本子を見る。
「そうなの?」
「剣道してる時はね」
「してない時は?」
「普通」
「ひどくない?」
「少しだらしない」
「さっき褒めてたよな?」
「剣道してる時は」
「限定するなよ」
本子は楽しそうに笑う。
けれど。
格好いいと思っていた。
それを口にした途端、頬が少しだけ熱くなった。
本子は誤魔化すように、縁之丞から顔を逸らした。
縁之丞は、不思議そうに本子の横顔を見る。
「やっぱり顔赤くない?」
「夕焼けのせい」
「さっきは道場が暑いって言ってたけど」
「今は夕焼け」
「便利だな」
「何が?」
「何でもない」
二人は再び、並んで歩く。
縁之丞は昔から女子に人気があった。
小学生の頃も。
中学生になってからも。
何度も告白され、そのたびに短く断ってきた。
本人だけが、それを大したことだと思っていない。
本子は、そんな縁之丞を誰よりもよく知っていた。
格好いいところも。
だらしないところも。
女子から好意を向けられても、まるで気づかないところも。
竹刀を握れば誰にも隙を見せないくせに。
自分が背後へ近づけば、簡単に驚いてしまうことも。
全部。
ずっと隣にいた本子だけが知っている顔だった。
だからこそ。
他の女子たちが縁之丞を格好いいと言った時。
自分の大切なものを、少しだけ取られたように感じてしまったのかもしれない。
けれど。
本子はまだ、その気持ちを言葉にできなかった。
ただの幼馴染なのに。
縁之丞が誰に褒められても、困ることなどないはずなのに。
胸の奥には、消えない小さなもやもやが残っている。
縁之丞も、そんな本子を横目で見ていた。
今日は何となく、いつもの本子とは違う。
不機嫌そうにしたかと思えば、急に笑う。
剣道を格好いいと褒めた後には、顔を赤くして目を逸らした。
何が違うのか。
どうしてそうなったのか。
縁之丞には分からない。
きっと、気のせいだろう。
そう思いながらも。
縁之丞は、少しだけ歩く速度を落とした。
本子も何も言わず、その歩調に合わせる。
夕焼けに照らされ、二人の影が長く伸びていた。
本子はまだ、自分の胸に生まれた小さなもやもやの正体を知らない。
そして縁之丞も。
本子の変化が妙に気になっている理由を、まだ知らなかった。




