第15話 終わりの約束
本子は、スマートフォンの画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「あと一つ、決めておいた方がいいと思う」
「何?」
縁之丞が、本子の手元を覗き込む。
本子はすぐには答えなかった。
何と伝えるべきか考えるように、画面の上で指を止める。
「どちらかに……本当に好きな人ができたら」
一度だけ、言葉を区切る。
「恋人ごっこは終わり」
縁之丞の表情が、わずかに止まった。
「……好きな人ができたら、か」
「うん」
本子は小さく頷く。
「だって、別に好きな人がいるのに、私たちが恋人ごっこを続けるのは変でしょ」
「まあな」
「その人にも悪いし」
「確かに」
理屈としては正しい。
互いの気持ちを確かめるために始めた、恋人ごっこ。
本当に好きな相手ができたなら、続ける理由はない。
相手の恋を邪魔せず、幼馴染として応援する。
それが当然だった。
それなのに。
二人とも、すぐには頷けなかった。
短い沈黙が流れる。
本子は、何となく縁之丞の横顔を見る。
そして。
考えなくてもいいことを、想像してしまった。
縁之丞が、知らない女子生徒と一緒に登校する。
昼休みには、その子と弁当を食べる。
休日には、二人で出かける。
縁之丞の飲み物を、その子が当たり前のように飲む。
ゲームに勝ったと笑いながら、その胸へ抱きつく。
自分がずっといた場所へ、別の誰かが立っている。
それを想像しただけで。
本子の胸の奥が、小さくざわついた。
「本子?」
縁之丞に呼ばれ、本子は我に返る。
「何?」
「急に黙ったから」
「ちょっと考えてただけ」
「何を?」
「何でもない」
本子は誤魔化すように、スマートフォンへ視線を戻した。
一方。
縁之丞も、同じようなことを考えていた。
本子が、知らない男子と登校する。
中庭のベンチで、楽しそうに弁当を食べる。
その男子へ卵焼きを分ける。
人混みの中ではぐれないように、手を繋ぐ。
休日になれば、自分ではなく、その男子の家へ遊びに行く。
本子が幸せなら、喜ぶべきなのだろう。
幼馴染なのだから。
けれど。
想像しただけで、妙に落ち着かなかった。
「縁之丞こそ、どうしたの?」
「いや」
「何か考えてた?」
「少しだけ」
「何を?」
「何でもない」
「真似しないでよ」
「本子も言わなかっただろ」
「それはそうだけど」
二人は顔を見合わせる。
互いに何を想像していたのかは、分からない。
けれど、何となく同じようなことを考えていた気がした。
縁之丞が静かに口を開く。
「もし、本子に好きな人ができたら」
「うん」
「応援するよ」
少しだけ。
その声は硬かった。
本子も笑顔を作る。
「私も」
「縁之丞に好きな人ができたら、応援する」
「本当に?」
「もちろん」
「嫌じゃない?」
「どうして私が嫌がるの?」
「いや。そうだけど」
本子は少しだけ迷った後、付け加える。
「幼馴染だから」
「そっか」
「うん」
「俺も、幼馴染だから応援する」
「ありがとう」
何度も使ってきた、便利な言葉。
毎日一緒にいるのも。
手を繋ぐのも。
食べ物を分け合うのも。
互いを大切に思うのも。
すべて、幼馴染だから。
それで説明できると思っていた。
けれど今日は。
幼馴染だから応援するという言葉が、少しだけ寂しく聞こえた。
「じゃあ、最後のルール」
本子は、ゆっくりと文字を入力する。
六、どちらかに本当に好きな人ができたら、恋人ごっこは終わり。
入力を終えた指が、画面の上で止まる。
「これで完成」
「ああ」
「何か変えたいところある?」
「ない」
「じゃあ、保存するね」
「うん」
本子は保存ボタンへ触れた。
これで、二人だけのルールが完成した。
学校では、今まで通りに過ごす。
恋人ごっこは、誰にも言わない。
恋人らしいことをするのは、二人きりの時だけ。
嫌なことは無理にしない。
やめたくなった時は、隠さずに伝える。
そして。
本当に好きな人ができたら、終わりにする。
「これなら安心だね」
本子が笑う。
「そうだな」
縁之丞も笑い返した。
けれど。
二人の笑顔は、どこかぎこちなかった。
◇
放課後。
二人は、いつもの帰り道を並んで歩いていた。
隣を歩く距離は、いつもと同じ。
けれど、どちらも普段より口数が少なかった。
話題がないわけではない。
今日の授業や、次の休日に遊ぶゲーム。
話そうと思えば、いくらでも話せる。
それでも二人の頭からは、先ほど決めた最後の規則が離れなかった。
本子が、静かに口を開く。
「縁之丞」
「何?」
「好きな人、できそう?」
「急に何だよ」
「ちょっと気になっただけ」
「今はいないけど」
「今後の話」
「そんなの分からないだろ」
「そうだけど」
本子は前を向いたまま、縁之丞の答えを待つ。
縁之丞は少し考えた。
「分からない」
「そっか」
「本子は?」
「私も分からない」
「誰か気になるやつとかいないの?」
「いないよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「そっか」
「何で二回も聞くの?」
「何となく」
「ふーん」
今度は、本子が縁之丞へ尋ねる。
「縁之丞も、気になる人いない?」
「いない」
「本当に?」
「本当だって」
「そっか」
二人は顔を見合わせる。
そして、小さく笑った。
互いの答えを聞き、胸の奥が少しだけ軽くなっていた。
けれど二人とも。
なぜ安心したのかまでは、考えなかった。
「好きな人って、作ろうと思ってできるものじゃないしな」
「そうだね」
「できた時は、ちゃんと言う」
「うん」
「本子もな」
「分かってる」
そう言って歩いていると、二人の手が触れた。
指先が、ほんの少し重なる。
普段なら、そのまま何も考えず手を繋いでいた。
けれど今日は。
二人とも、一瞬だけ迷った。
この手を繋ぐ時間にも。
いつか終わりが来るのだろうか。
縁之丞か本子に、本当に好きな人ができたら。
もう、恋人として繋ぐことはできない。
そう考えた瞬間。
本子は、触れていた小指をそっと絡めた。
縁之丞が本子を見る。
「何?」
「二人きりだから、いいよね」
「ああ」
縁之丞は、その小指を逃がさないように手を握る。
今度は、指と指を絡めた。
以前、すぐには試せなかった恋人繋ぎ。
本子は繋いだ手を見下ろし、小さく笑う。
「これ、初めてだね」
「普通に繋ぐのとは違うな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「私も」
二人は指を絡めたまま、ゆっくりと歩き始めた。
いつか。
どちらかが、別の誰かを好きになる。
その時は、恋人ごっこを終わらせる。
今まで通りの幼馴染へ戻り、相手の恋を応援する。
そう約束したはずだった。
正しい約束のはずだった。
それなのに。
繋いだ手に、いつもより少しだけ強く力が入る。
二人の胸には、言葉にできない小さな違和感が残っていた。
その感情の名前に。
二人はまだ、気づいていなかった。




