エピローグ 本当の恋人
正式に交際を始めた。
その翌朝。
縁之丞は。
いつもの待ち合わせ場所で、本子を待っていた。
毎朝。
二人が学校へ向かうために集まる場所。
何年も繰り返してきた。
変わらない朝だった。
「おはよう」
背後から。
本子の声が聞こえる。
縁之丞が振り返ると。
いつもと同じ制服姿の本子が立っていた。
「おはよう」
二人は。
並んで学校へ向かう。
歩く道も。
見慣れた景色も。
交わす会話も。
隣にいる相手も。
昨日までと。
何も変わっていない。
けれど。
二人の間には。
今までになかった距離が空いていた。
◇
以前なら。
肩が触れるほど近くを歩いても。
何も気にしなかった。
狭い道では。
自然に身体を寄せ合った。
人混みへ入れば。
はぐれないように、何も考えず手を繋いだ。
ゲームに勝てば。
本子は、嬉しそうに縁之丞へ抱きついた。
ソファへ並んで座れば。
眠くなった本子が。
自然に縁之丞の肩へ頭を預けてきた。
恋人ごっこをしていた時でさえ。
触れることに。
これほど緊張したことはなかった。
けれど。
今は。
本物の恋人になったばかり。
少し近づこうとするだけで。
互いに、相手の動きを意識してしまう。
本子が横を見る。
縁之丞も。
同じタイミングで本子を見た。
目が合い。
二人とも、すぐに前へ視線を戻す。
昨日までは。
何度も顔を見合わせていたはずなのに。
今は。
目が合うだけで、妙に恥ずかしかった。
「……遠くない?」
本子が、ぽつりと尋ねる。
「本子も離れてるだろ」
「縁之丞が近づけばいいじゃん」
「本子が近づけよ」
「恋人なんだから」
本子は。
少しだけ頬を膨らませる。
「縁之丞から来て」
「そういう決まりあるの?」
「今作った」
「勝手に作るなよ」
「じゃあ、どうするの?」
「どうするって?」
「このまま」
本子は。
二人の間に空いた距離へ視線を落とす。
「ずっと離れて歩くの?」
「それは変だろ」
「じゃあ、近づいて」
「本子が来ればいいだろ」
「縁之丞から」
「何でだよ」
「恋人だから」
「それしか言ってないじゃん」
二人は。
しばらく譲らなかった。
恋人になったというのに。
やっていることは。
昨日までと何も変わらない。
◇
やがて。
縁之丞が、小さく息を吐いた。
「分かったよ」
少しだけ。
本子との距離を詰める。
そして。
意を決したように。
右手を差し出した。
「手」
本子が。
差し出された手を見る。
「何?」
「繋ぐ?」
本子は。
一瞬、目を丸くした。
「今さら聞くの?」
「本物は違うんだよ」
「恋人ごっこの時は」
「何も聞かずに繋いでたのに」
「だから」
縁之丞は、僅かに視線を逸らす。
「本物は違うんだって」
「どう違うの?」
「知らない」
「知らないのに言ってるの?」
「うるさいな」
本子は。
小さく笑った。
それから。
縁之丞の手へ。
自分の手を重ねる。
何度も。
繋いだことのある手だった。
大きさも。
温かさも。
力の入れ方も知っている。
それでも。
今日は。
ただ手のひらを重ねるだけではなかった。
本子の指が。
縁之丞の指の間へ入る。
互いの指を。
一本ずつ絡めた。
その瞬間。
二人の身体が。
同時に僅かに強張る。
縁之丞が。
隣の本子を見る。
本子も。
真っ赤になった顔で、縁之丞を見ていた。
「何で」
本子が、小さな声で言う。
「そんなに赤くなってるの?」
「本子もだろ」
「私は赤くなってない」
「なってる」
「なってない」
「耳まで赤いぞ」
「縁之丞の方が赤い」
「本子の方だろ」
二人は。
手を繋いだまま言い合う。
手のひらが。
少しずつ汗ばんでいく。
「縁之丞の手」
本子が言う。
「汗かいてる」
「本子もだろ」
「私は緊張してないから」
「嘘つけ」
「縁之丞が緊張してるから」
「私にも移っただけ」
「そんなわけあるか」
本子は。
繋いだ手を見下ろす。
これまで。
何百回も繋いできた手。
けれど。
本当の恋人として繋ぐのは。
今日が初めてだった。
◇
しばらく。
二人は手を繋いだまま歩いた。
最初は。
指先へ意識が集中していた。
互いの体温が伝わるたび。
心臓が大きく跳ねた。
けれど。
歩いているうちに。
少しずつ。
その距離にも慣れていく。
「今日の授業」
本子が尋ねる。
「一時間目、何だっけ?」
「数学」
「最悪」
「宿題やった?」
「やってない」
「昨日、何してたんだよ」
「縁之丞に告白されてた」
「それは夕方だろ」
「余韻に浸ってた」
「宿題やれよ」
「縁之丞のせいじゃん」
「俺のせいにするな」
ようやく。
いつもの会話が戻ってくる。
本子は。
少しだけ楽しそうに笑った。
そして。
突然。
繋いでいた手を離す。
「何だよ」
縁之丞が。
本子のいた方へ顔を向ける。
けれど。
そこには、誰もいなかった。
「本子?」
周囲を見回す。
少し前にも。
後ろにも。
本子の姿はない。
「どこ行った?」
次の瞬間。
背後から。
両手で目を覆われた。
「だーれだ」
「うわっ!」
縁之丞は。
大きく肩を跳ねさせた。
本子が。
背後で楽しそうに笑う。
「急にやるなって!」
「剣道が強くても」
本子は、縁之丞の目から手を離す。
「私には気づけないんだね」
「本子が静かすぎるんだよ」
「普通に歩いてるだけだけど?」
「絶対嘘だろ」
「何で?」
「手を離した瞬間に消える奴が」
「普通なわけないだろ」
「縁之丞が油断してただけだよ」
「恋人が急に消えると思わないだろ」
本子は。
その言葉を聞き。
一瞬だけ、目を瞬いた。
「今」
「何?」
「恋人って言った」
「恋人なんだから、言うだろ」
本子は。
少しだけ頬を赤くしながら。
嬉しそうに笑った。
「そっか」
「何だよ」
「何でもない」
本子が。
再び縁之丞の隣へ並ぶ。
縁之丞は。
今度こそ逃がさないように。
本子の手をしっかりと握った。
「もう離すなよ」
「縁之丞が油断するから悪いんでしょ」
「恋人になったんだから」
「普通に隣を歩け」
「恋人になっても」
本子は、笑いながら答える。
「私は私だよ」
「知ってる」
縁之丞も。
呆れたように笑った。
◇
昨日までと同じ道。
昨日までと同じ朝。
昨日までと同じ相手。
けれど。
昨日までとは。
ほんの少しだけ違う距離。
幼馴染だった二人は。
これから。
ゆっくりと恋人になっていく。
きっと。
すべてが急に変わるわけではない。
明日も。
一緒に学校へ向かう。
くだらないことで言い合い。
面白いことがあれば。
最初に互いへ伝える。
何も話すことがなければ。
黙ったまま、隣を歩く。
春になれば。
二人で桜を見る。
夏になれば。
両家の家族たちと肉を焼く。
秋になれば。
紅葉の下を並んで歩く。
冬になれば。
また同じ雪山へ向かう。
本子は。
縁之丞を驚かせるために、気配を消し。
縁之丞は。
今度こそ気づくと、毎年同じことを言う。
年末年始になれば。
霧島一族と鬼灯一族が集まる旅館で。
どちらのお年玉が多かったかを競い合う。
いつか。
二人が渡す側になった時にも。
どちらが多く渡したかで。
きっと、くだらない言い合いをする。
これまでと。
何も変わらない未来。
特別な場所へ行かなくてもいい。
毎日。
胸が高鳴るような出来事がなくてもいい。
疲れた時には。
黙って隣にいられる。
嬉しい時には。
一番に顔を見せられる。
苦しい時には。
無理をせず、寄りかかることができる。
そんな普通の日々を。
二人で過ごしていく。
何も変わらない日常のすべてが。
これからは。
少しずつ、特別になっていく。
ずっと普通だった幼馴染と始めた恋人ごっこは。
もう、終わった。
二人は今日から。
本当の恋人として歩き始める。
二人にとって。
何より大切な。
普通の日常へ。




