第110話 自分たちの意思で
「そんな未来を」
本子は。
胸の奥から、言葉を絞り出す。
「一緒に過ごしたい相手は」
涙が。
一筋だけ、頬を伝った。
「縁之丞しかいなかった」
縁之丞は。
何も言わず、本子を見つめていた。
いつもなら。
本子が泣いていれば。
どうしたのかと尋ねる。
からかうように笑っていれば。
何が面白いのかと聞く。
けれど。
今は。
すぐに言葉が出てこなかった。
本子が伝えてくれたものが。
胸の奥へ。
ゆっくりと染み込んでいく。
何年先にも。
一緒にいたい。
特別な日だけではなく。
何もない日も。
隣で過ごしたい。
それは。
縁之丞が思い描いていた未来と。
まったく同じだった。
◇
「本子」
縁之丞が名前を呼ぶ。
「何?」
本子は。
僅かに震える声で答えた。
「俺も」
縁之丞は。
言葉を探すように、一度息を吸う。
「本子と同じだ」
「同じ?」
「ああ」
幼い頃から。
二人は、当たり前のように一緒にいた。
家が近く。
親同士も親しく。
両家は、何代にもわたって付き合いを続けてきた。
幼い頃。
両家の親たちは。
縁之丞と本子を、将来結婚させようと決めていた。
けれど。
二人が、その事実を知ったのは。
高校へ進学してからだった。
それまでは。
ただの幼馴染だった。
毎朝、一緒に学校へ行き。
家族ぐるみで出かけ。
互いの家へ、当たり前のように上がり込む。
将来、結婚する相手だとは知らず。
何も考えずに、隣にいた。
許嫁だと知らされてから。
二人の関係は。
少しずつ変わり始めた。
今まで何とも思わなかった距離を意識し。
触れることへ意味を感じ。
互いを異性として見るために。
恋人ごっこを始めた。
けれど。
その許嫁の話も。
今は、もうなくなっている。
親が決めた未来へ。
従う必要はない。
縁之丞が本子を選ぶ義務も。
本子が縁之丞を選ぶ義務もなかった。
幼馴染へ戻ることもできた。
別の誰かを選ぶこともできた。
だからこそ。
今度は。
二人が、自分たちで決めなければならない。
「許嫁の話は」
縁之丞は、ゆっくりと言った。
「なくなってもいい」
本子の目が揺れる。
それでも。
すぐに、小さく頷いた。
「うん」
「親が決めた相手じゃなくてもいい」
「うん」
「霧島家と鬼灯家の付き合いが長いからでもない」
「うん」
本子は。
一つずつ。
縁之丞の言葉を受け止める。
「幼馴染だから」
縁之丞は。
本子から目を逸らさなかった。
「何となく、一緒にいるわけでもない」
本子は答えなかった。
答えられなかった。
胸がいっぱいになり。
声を出せば。
また涙が零れそうだった。
縁之丞は。
それでも言葉を続ける。
「許嫁じゃなくても」
「親に言われなくても」
「本子と結婚する未来が、決まってなくても」
縁之丞は。
膝の上に置いていた手を。
強く握った。
「それでも」
本子を真っ直ぐに見る。
「俺は、本子と一緒にいたい」
本子の目に。
再び涙が浮かんだ。
◇
「何かあったら」
縁之丞は続ける。
「最初に本子へ話したい」
「面白いものを見つけたら」
「本子にも見せたい」
「嬉しいことがあったら」
「一緒に喜んでほしい」
「嫌なことがあった時は」
「隣にいてほしい」
本子が。
震える唇を、ぎゅっと結ぶ。
「春になったら」
「一緒に桜を見たい」
「夏になったら」
「また家族で肉を焼きたい」
「秋になったら」
「紅葉を見ながら、どうでもいい話をしたい」
「冬になったら」
「本子に後ろから驚かされないようにしながら、スキーへ行きたい」
「それは無理だよ」
本子が。
涙を浮かべたまま、少しだけ笑った。
「絶対、気づけないから」
「次は気づく」
「何回やっても無理だよ」
「やってみないと分からないだろ」
「もう何回もやってるじゃん」
「今度こそだ」
いつものような会話。
けれど。
二人の声は。
どちらも、僅かに震えていた。
縁之丞は。
小さく息を吐く。
「年末年始も」
「また一緒に、お年玉の金額を競いたい」
「負けないから」
「今年は俺の方が多かった」
「来年は私が勝つ」
「その次は?」
「その次も」
「何年先までやるんだよ」
「ずっと」
本子は。
今度こそ、迷わず答えた。
「ずっとやる」
縁之丞は。
その言葉を聞き。
穏やかに笑った。
「じゃあ」
「ずっと、隣にいないとな」
本子の頬を。
もう一筋、涙が伝った。
◇
しばらく。
二人は、何も言わなかった。
夕暮れの公園。
子供たちの姿は。
いつの間にか、少なくなっていた。
遠くから。
帰宅を知らせる音楽が聞こえてくる。
幼い頃。
何度も聞いた音。
あの音が流れると。
二人は並んで家へ帰った。
明日になれば。
また会える。
そんなことを。
疑ったことすらなかった。
けれど。
今は。
明日も。
その次の日も。
何年先も一緒にいるためには。
自分たちで。
互いを選ばなければならない。
「縁之丞」
本子が、静かに名前を呼ぶ。
「何?」
「さっきの」
「私と一緒にいたいっていうの」
「うん」
本子は。
少しだけ視線を逸らした。
「それって」
声が。
また、小さく震える。
「また、恋人ごっこ?」
縁之丞は。
一瞬も迷わなかった。
「違う」
本子が、縁之丞を見る。
「もう」
縁之丞は。
はっきりと言った。
「ごっこは終わりにしたい」
本子の瞳が揺れる。
「今度は」
縁之丞の心臓が。
激しく鼓動していた。
剣道の試合でも。
大会の決勝でも。
これほど緊張したことはない。
けれど。
逃げるつもりはなかった。
弓香に言われた。
すべてを理解してからでなければ。
気持ちを伝えてはいけないわけではない。
少なくとも。
失いたくないという気持ちは。
もう、分かっているのだと。
背中を押してもらった。
今度は。
自分の言葉で。
本子へ伝える。
「本当に」
縁之丞は。
ベンチの上で、本子へ身体を向けた。
「俺と付き合ってほしい」
本子は。
呼吸することさえ忘れたように。
縁之丞を見つめていた。
縁之丞は。
その目から逃げなかった。
「本子のことが好きだ」
◇
ようやく。
言葉になった。
長い時間をかけなければ。
気づくことができなかった感情。
近すぎたから。
見えなかったもの。
隣にいることが当たり前すぎて。
名前をつける必要さえないと思っていた気持ち。
離れて。
他の人と出会い。
隣にいない時間を過ごして。
ようやく。
その当たり前が。
どれほど大切だったのかを知った。
それは。
幼馴染としての情だけではない。
家族に近いからでもない。
許嫁だと知らされたからでもない。
縁之丞が。
一人の女性として。
本子を選びたいと思う気持ちだった。
本子の目から。
涙が溢れた。
「何で泣くんだよ」
「だって」
本子は。
手の甲で、慌てて涙を拭う。
「ずっと」
「分からなかったから」
「何が?」
「縁之丞が」
声が詰まる。
「私のことを」
「どう思ってるのか」
許嫁だと知らされてから。
二人は、恋人ごっこを始めた。
手を繋ぎ。
抱きつき。
肩へ頭を預け。
恋人のような時間を過ごした。
それでも。
すべて。
許嫁だと知らされたから。
恋人のふりをしてくれていただけかもしれない。
幼馴染だから。
自分の我が儘へ付き合ってくれただけかもしれない。
本子だけが。
少しずつ、本気になっているのではないか。
何度も。
そんな不安を抱えていた。
「でも」
本子は。
涙を拭い。
縁之丞を見た。
泣いているのに。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
「今、分かった」
「そっか」
「うん」
縁之丞も。
僅かに頬を緩める。
本子は。
小さく息を吸った。
「はい」
縁之丞が。
目を瞬く。
「何が?」
「返事」
「もう少し、ちゃんと言ってくれよ」
「ちゃんと言ったじゃん」
「はい、だけじゃ分からないだろ」
「縁之丞が言わせたいだけでしょ」
「そうかもしれない」
本子は。
恥ずかしそうに視線を逸らした。
顔が熱い。
耳まで赤くなっているのが。
自分でも分かった。
けれど。
縁之丞は。
先に、きちんと言葉にしてくれた。
なら。
自分も逃げてはいけない。
本子は。
もう一度、縁之丞を見た。
「私も」
僅かに震える声で言う。
「縁之丞が好き」
今度は。
縁之丞が言葉を失った。
「何か言ってよ」
「いや」
「分かってたけど」
「言われると、違うな」
「何それ」
本子は。
涙を拭いながら笑った。
「私も」
もう一度、言葉を重ねる。
「格好よくて」
「頭がよくて」
「優しくて」
「もっと素敵な人は、いると思う」
「また言うのかよ」
「でも」
本子は。
真っ直ぐに縁之丞を見る。
「私は、縁之丞がいい」
条件ではない。
誰かと比べて。
一番優れていたからでもない。
「縁之丞じゃないと」
本子は、穏やかに笑った。
「駄目だった」
◇
二人は。
しばらく、見つめ合っていた。
これまでも。
何度も近くで顔を見た。
手を繋ぎ。
抱き合い。
恋人のように過ごしてきた。
それなのに。
互いの気持ちを知っただけで。
相手の顔を見ていることさえ。
急に恥ずかしくなる。
本子が先に視線を逸らした。
縁之丞も。
少し遅れて前を向く。
二人の間には。
まだ、僅かな距離が空いていた。
その距離を。
本子が少しだけ詰める。
肩と肩が。
僅かに触れた。
以前なら。
何も感じなかった距離。
けれど。
今は。
触れたところから。
熱が伝わってくるようだった。
「これから」
本子が、小さな声で尋ねる。
「どうするの?」
「どうするって?」
「本当の恋人になるんでしょ?」
「ああ」
「何か変わるのかな」
「分からない」
「分からないの?」
「恋人になったことないし」
「恋人ごっこはしてたじゃん」
「あれは、ごっこだろ」
「じゃあ」
本子は。
少しだけ楽しそうに笑う。
「これから、覚えていけばいいね」
「何を?」
「恋人のなり方」
「そんなのあるのか?」
「知らない」
「本子も知らないんじゃないか」
「だから」
本子は。
縁之丞の肩へ、そっと自分の肩を重ねた。
「二人で覚えていけばいいでしょ」
縁之丞は。
少し驚いた後。
穏やかに頷いた。
「ああ」
◇
許嫁だからではなく。
家同士の付き合いが長いからでもなく。
幼馴染だから。
何となく隣にいるわけでもない。
高校へ進学してから知った。
親たちが決めた未来は。
一度、完全になくなった。
元の幼馴染へ戻ることもできた。
別々の相手を選ぶこともできた。
それでも。
二人は。
もう一度、互いの隣へ戻ってきた。
今度は。
誰かに決められたからではない。
自分たちの心で。
自分たちの未来を選んだ。
霧島縁之丞と鬼灯本子は。
この日、初めて。
自分たちの意思で。
互いを選んだ。




