第109話 普通がいい
「縁之丞といる方が」
本子は。
少しだけ視線を落とした。
「普通だったから」
縁之丞は。
その言葉の意味が分からず。
本子を見つめた。
「普通?」
「うん」
「それって」
縁之丞は、僅かに眉を寄せる。
「市之瀬さんといるより、つまらなかったってことか?」
「違うよ」
本子は、すぐに首を横へ振った。
「何も感じないって意味でもない」
「じゃあ、どういう意味だよ」
「それを今、考えてるの」
「考えてから言えよ」
「縁之丞が急かすからでしょ」
「俺のせいなのか?」
「そう」
「違うだろ」
いつものような言い合い。
それだけで。
本子の胸にあった緊張が、少しだけほどける。
何を言っても。
縁之丞なら受け止めてくれる。
上手く説明できなくても。
途中で言葉に詰まっても。
呆れながら。
最後まで聞いてくれる。
そのことを。
本子は、ずっと前から知っていた。
◇
「市之瀬さんといる時は」
本子は、ゆっくりと言葉を探す。
「すごく楽しかったよ」
「うん」
「知らないことを、たくさん教えてくれて」
「今まで見たことのないものを見せてくれた」
「話を聞いてるだけで」
「自分が少し賢くなったような気もした」
「実際、少しは賢くなったんじゃないか?」
「少しって何?」
「元があるからな」
「失礼だな」
本子は頬を膨らませる。
縁之丞は、小さく笑った。
「でも」
本子は、また前を向く。
「ずっと、少しだけ緊張してた」
「市之瀬さんが、怖かったのか?」
「違う」
本子は首を横へ振る。
「すごく優しかった」
「私が学生だからって」
「無理に答えを求めることもなかった」
「子供扱いもしなかった」
「じゃあ、何で緊張するんだ?」
「良く見られたかったから」
縁之丞は黙る。
「市之瀬さんに釣り合う人だと思われたくて」
「子供っぽく見えないようにして」
「退屈な人だと思われないように」
「何か話さなきゃって考えてた」
本子は、自分の手へ視線を落とす。
「黙ってる時間があると」
「何か話題を探さなきゃって思った」
「変なことを言ってないかなとか」
「もっとちゃんとした返事をした方がよかったかなとか」
「家に帰ってからも、少し考えてた」
「市之瀬さんに、そうしろって言われたのか?」
「ううん」
本子は、ゆっくり首を横へ振る。
「全部、私が勝手にやってたこと」
「市之瀬さんは」
「何も悪くないよ」
むしろ。
何度も、無理をしなくていいと言ってくれた。
分からないことは、分からないままでいい。
思ったことを、そのまま話してほしい。
匠は、本子をそのまま受け入れようとしてくれていた。
けれど。
本子自身が。
匠の隣にふさわしい人間になろうとしていた。
◇
「でも」
本子は、隣の縁之丞を見る。
「縁之丞といる時は」
「そんなこと、考えたことなかった」
「それは俺に良く見られなくてもいいってことか?」
「そうかも」
「おい」
本子は、少し笑う。
「だって」
「縁之丞には、もう全部知られてるし」
「私が格好悪いところも」
「馬鹿なことを言うところも」
「すぐ拗ねるところも」
「お菓子を食べすぎるところも」
「朝、機嫌が悪いところも」
「知ってる」
「全部肯定しなくてもいいじゃん」
「本子が言ったんだろ」
「そうだけど」
本子は、口元を緩めた。
「だから」
「縁之丞の前では」
「良く見せなくていいの」
何か面白い話を。
探さなくてもいい。
黙って歩いても。
気まずくならない。
疲れていれば。
何も話さず、隣を歩けばいい。
機嫌が悪ければ。
無理に笑う必要もない。
「縁之丞といる時は」
「何も頑張らなくていい」
本子は、胸の内にあるものを。
一つずつ確かめるように言った。
「何か話さなきゃって、考えなくていい」
「何も知らないって、思われてもいい」
「馬鹿なことを言っても」
「縁之丞なら、いつものことだって笑うだけだし」
「そこまでは言わない」
「顔に出てるよ」
「出てない」
「出てる」
また。
どうでもいいことで言い合う。
けれど。
そのやり取りすら。
本子にとっては、心地よかった。
◇
「幸せって」
本子が、ぽつりと言った。
「楽しいことだと思ってた」
縁之丞は、黙って聞く。
「どこか特別な場所へ行ったり」
「知らないものを見たり」
「胸がドキドキしたり」
「そういうのが、幸せなんだと思ってた」
匠と過ごした時間は。
確かに、楽しかった。
新しいものを知るたび。
心が弾んだ。
少し緊張しながら。
次はどこへ連れていってくれるのだろうと期待した。
「でも」
本子は、ベンチの前へ視線を落とす。
「それだけじゃなかった」
「じゃあ、何なんだ?」
「苦しくないこと」
縁之丞が、本子を見る。
「苦しくない?」
「うん」
上手く話せなくても。
嫌われるかもしれないと不安にならない。
沈黙が続いても。
何か話さなければと焦らない。
失敗しても。
呆れられることはあっても。
見放されるとは思わない。
「無理しなくてもいいこと」
「何も起きてない時に」
「そのままでいられること」
本子は。
少し恥ずかしそうに笑った。
「楽しくて、笑ってる時だけじゃなくて」
「疲れてる時も」
「嫌なことがあった時も」
「何もしたくない時も」
「この人の隣なら大丈夫って思えること」
本子は。
それが幸せなのだと。
離れて初めて気づいた。
大きな喜びがあることではない。
毎日、胸が高鳴ることでもない。
苦しい時に。
無理をせずにいられる場所があること。
何もない時間を。
安心して過ごせる相手がいること。
「縁之丞の隣は」
本子は、小さな声で言った。
「そういう場所だった」
◇
少しの間。
二人の間に沈黙が流れた。
けれど。
その沈黙は、気まずくなかった。
本子は。
それを示すように。
何も話さず、縁之丞の隣へ座っていた。
縁之丞も。
無理に言葉を探さなかった。
風が吹き。
木々の葉が擦れ合う。
子供たちの笑い声が。
遠くから聞こえてくる。
いつもの公園。
いつもの夕方。
特別なものなど、何もない。
それでも。
本子の胸は。
不思議なほど、穏やかだった。
「そういえば」
本子が口を開く。
「水族館に行ったの」
「さっきも聞いた」
「ちゃんとは話してないでしょ」
「それで?」
「すごく大きな水槽があって」
「魚、多かった?」
本子は。
一瞬、目を丸くした。
次の瞬間。
吹き出すように笑った。
「何で笑うんだよ」
「だって」
本子は、口元を押さえる。
「市之瀬さんは、もっと素敵なことをたくさん教えてくれたよ」
「水槽の水の流れとか」
「照明の工夫とか」
「魚が泳ぐ場所にも理由があるとか」
「ちゃんと見れば、魚が多いことくらい分かるだろ」
「縁之丞なら」
本子は、笑いながら続ける。
「魚、多いなって言うと思ってたから」
「実際、多いんだろ?」
「そういうところ」
「何だよ」
「何でもない」
本子は笑う。
けれど。
その目には。
いつの間にか、涙が浮かんでいた。
匠と水族館へ行った時。
大きな水槽を前にして。
縁之丞なら何を言うのだろうと考えた。
そして。
今。
想像していたとおりの言葉を。
縁之丞は、何の迷いもなく口にした。
賢くもない。
気の利いた言葉でもない。
魚を見れば。
誰でも思うような、くだらない一言。
それなのに。
どうしようもなく。
嬉しかった。
「何で泣いてるんだよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」
「笑いすぎただけ」
「そんなに面白いこと言ったか?」
「言ってない」
「じゃあ何なんだよ」
本子は。
目元を指で拭う。
それから。
縁之丞を見た。
◇
「もっと素敵な人は」
本子は、ゆっくりと言った。
「たくさんいると思う」
「急に何だよ」
「縁之丞より格好いい人もいる」
「いるだろうな」
「頭のいい人もいる」
「まあ、いるな」
「優しい人もいる」
「そこまで言う?」
縁之丞が、不満そうに本子を見る。
本子は。
涙を浮かべたまま笑った。
「縁之丞より」
「いろんなことを知ってる人もいる」
「私が知らない場所へ」
「たくさん連れていってくれる人もいると思う」
「だったら」
縁之丞は、少しだけ視線を落とす。
「そういう人を選べばいいだろ」
「嫌」
本子は、迷わず答えた。
縁之丞が顔を上げる。
「でも」
本子は。
震える声で続ける。
「縁之丞じゃないと駄目だった」
胸の奥にあったものが。
ようやく、言葉になった。
「どれだけ素敵な人でも」
「どれだけ知らない世界を見せてくれても」
「その人は、縁之丞じゃなかった」
本子は。
二人の間に空いていた距離を見る。
以前なら。
何も考えず、すぐに詰められた距離。
けれど。
今は。
少しだけ遠く感じる。
「楽しいことがあったら」
「縁之丞に、一番に話したい」
「悲しいことがあったら」
「縁之丞に、隣にいてほしい」
「何もない日も」
「縁之丞と一緒にいたい」
本子は。
自分の手を、ぎゅっと握った。
「前は」
「触ることだって、普通だった」
「手を繋ぐのも」
「肩に寄りかかるのも」
「後ろから抱きつくのも」
「何も考えずにできた」
縁之丞の肩が。
僅かに揺れる。
「離れてから」
本子は、声を震わせた。
「あれが全部」
「特別だったって分かった」
◇
これから先の未来を考える。
春になれば。
一緒に桜を見たい。
満開の木の下で。
どちらが多く花びらを捕まえられるか、競いたい。
夏になれば。
両家の庭で、また肉を焼きたい。
縁之丞が焦がした肉を。
本子が文句を言いながら食べる。
秋になれば。
紅葉を見ながら。
どうでもいい話をして歩きたい。
冬になれば。
また同じ雪山へ行きたい。
縁之丞を驚かせるために。
気配を消して、背後へ回り込みたい。
年末年始には。
霧島一族と鬼灯一族が集まる旅館で。
どちらのお年玉が多かったか。
毎年のように競い合いたい。
特別な未来ではない。
今までと。
ほとんど変わらない日々。
けれど。
そのすべてに。
縁之丞がいてほしかった。
「何年先も」
本子は。
縁之丞を真っ直ぐに見る。
「今までと同じように」
「一緒に花見をして」
「肉を焼いて」
「紅葉を見て」
「スキーへ行って」
「お年玉の金額を競いたい」
「最後のは、いつまでやるつもりだよ」
「もらえる限り」
「その頃には、俺たちが渡す側になってるだろ」
「じゃあ」
本子は、涙を浮かべながら笑った。
「どっちが多く渡したか競う」
「何で競うんだよ」
「縁之丞に負けたくないから」
「そこは変わらないんだな」
「変わらないよ」
本子は、静かに頷いた。
「変わらないままでいたい」
知らない世界へ。
連れていってくれる相手ではなく。
何もない日を。
一緒に過ごせる相手。
胸が高鳴るような毎日ではなく。
安心して帰ることのできる日常。
本子が欲しかったものは。
きっと。
ずっと前から、隣にあった。
「そんな未来を」
本子は。
胸の奥から、言葉を絞り出す。
「一緒に過ごしたい相手は」
少しだけ。
涙が頬を伝った。
「縁之丞しかいなかった」
それは。
まだ、好きという言葉ではなかった。
けれど。
本子の心は。
もう。
その言葉と、ほとんど同じ場所まで辿り着いていた。




