第108話 ずっと考えていた
「ずっと」
縁之丞は、本子を真っ直ぐに見た。
「本子のことを考えてたから」
本子は。
言葉を失った。
聞こえなかったわけではない。
けれど。
その言葉が何を意味しているのか。
すぐには理解できなかった。
「……私?」
「ああ」
「天音さんと一緒にいたのに?」
「ああ」
縁之丞は、迷うことなく頷いた。
その瞬間。
本子の胸が、大きく跳ねた。
弓香は。
縁之丞が心から尊敬できるほど、魅力的な女性だった。
美しく。
強く。
優しく。
気遣いもできる。
そんな女性と一緒にいながら。
縁之丞は、自分のことを考えていた。
嬉しくないはずがなかった。
胸の奥へ。
温かなものが、ゆっくりと広がっていく。
けれど。
同時に。
期待することが怖かった。
「どういうこと?」
本子は、僅かに震える声で尋ねる。
「ずっとって」
「言葉のとおり」
「それじゃ分からないよ」
縁之丞は、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「俺も、最初は分かってなかったんだよ」
「何を?」
「何で、本子のことばっかり考えるのか」
縁之丞は前へ視線を向ける。
夕暮れの公園。
木々の葉が。
穏やかな風に揺れていた。
「天音さんと出かけてる時は、普通に楽しかった」
「武道の話も合ったし」
「俺の知らないことも教えてもらった」
「一緒にいて、落ち着く人だった」
本子は黙って聞く。
「でも」
縁之丞は、弓香と過ごした時間を思い返した。
「料理を見たら」
「本子が好きそうだと思った」
本子の指先が僅かに動く。
「変な置物を見つけたら」
「本子なら、何て言うだろうって考えた」
「弓道場で、俺の矢が的に当たった時も」
「天音さんに褒めてもらったのに」
縁之丞は苦笑する。
「本子にも見てほしいと思った」
何かを見つけるたび。
何かを感じるたび。
ごく自然に。
本子の顔が浮かんだ。
意識して思い出したわけではない。
忘れようとしても、忘れられなかったわけでもない。
ただ。
本子へ伝えることが。
縁之丞にとって、当たり前になっていた。
「天音さんと一緒にいたのに」
縁之丞は、本子を見る。
「頭の中には、ずっと本子がいた」
本子は俯いた。
顔を見られたくなかった。
頬が熱い。
鼓動が速い。
これほど真っ直ぐに。
縁之丞から、自分を求めるような言葉を聞いたのは。
初めてだった。
それでも。
まだ。
素直に喜ぶことはできなかった。
縁之丞が自分を好きだという意味なのか。
幼馴染として。
ただ気になっていただけなのか。
期待して。
勘違いだった時が怖い。
「それで」
本子は慎重に尋ねた。
「天音さんとの縁談を、断ったの?」
「ああ」
「私のことを考えてたから?」
「それだけじゃないけど」
縁之丞は少し考える。
弓香と出会えたことを。
後悔しているわけではない。
心から尊敬できる人だった。
もし。
本子が自分の人生にいなければ。
弓香との未来を選ぶこともできたかもしれない。
けれど。
「天音さんと一緒にいても」
「天音さんとの未来を、考えられなかった」
本子が顔を上げる。
「未来?」
「結婚して」
「一緒に暮らして」
「何年先も、隣にいるところ」
弓香なら。
きっと。
良い伴侶になっただろう。
互いを尊敬し。
支え合い。
穏やかな家庭を築けたかもしれない。
それでも。
「俺が考えてた先のことには」
縁之丞は、本子から目を逸らさなかった。
「いつも、本子がいた」
本子の目が揺れる。
「春になったら」
「また一緒に花見へ行って」
「夏になったら、家族で肉を焼いて」
「秋になったら、紅葉を見に行く」
「冬になったら、またスキーに行く」
「年末年始も」
「いつもみたいに、本子と一緒にいる」
これまでと変わらない未来。
特別な出来事ではない。
ただ。
何年先にも。
当たり前のように、本子が隣にいる。
縁之丞が思い浮かべられたのは。
そんな未来だけだった。
「天音さんにも言われた」
「本当に隣にいてほしい人は、自分じゃないって」
「……そうなんだ」
「全部、気づかれてた」
「縁之丞、分かりやすいもんね」
「顔には出てなかったらしい」
「じゃあ、どうして分かったの?」
「視線の動きとか」
「考え込む時の間とか」
「呼吸とかで分かったって」
本子は僅かに目を見開く。
「そこまで分かるものなの?」
「俺も同じこと聞いた」
「何て言ってた?」
「武道を続けてるから、人の動きを見る癖がついてるのかもしれないって」
「やっぱり、すごい人だね」
「ああ」
縁之丞が迷わず頷く。
本子は、少しだけ複雑そうに笑った。
「そんなに素敵な人に好かれてたのに」
「よく断れたね」
「だから、だよ」
「え?」
「中途半端な気持ちで選ぶ方が、失礼だろ」
弓香も。
同じことを望んでいた。
他の誰かを想ったまま、選ばれたくはない。
最後まで。
自分の心へ、正直な女性だった。
本子は静かに頷いた。
「そっか」
短い会話だった。
けれど。
二人の間に残っていた固い空気が。
少しずつ、ほどけていった。
◇
しばらくして。
縁之丞は、今度は本子へ尋ねた。
「本子の方は?」
「私?」
「市之瀬さん」
本子の肩が。
僅かに強張る。
「どんな人だった?」
今度は。
縁之丞が答えを待つ番だった。
本子は膝の上で手を組み直す。
匠と過ごした日々を思い返した。
高級ホテルでの顔合わせ。
美術館。
市之瀬家の屋敷。
ピアノの音色。
水族館の大水槽。
自分が知らなかった世界を。
匠は、いくつも見せてくれた。
「素敵な人だったよ」
本子が答える。
「そっか」
縁之丞の声が。
ほんの少しだけ低くなる。
「大学病院で働いてるお医者さんで」
「仕事にも、すごく誇りを持ってた」
「頭もよくて」
「難しいことも、私に分かるように説明してくれた」
「へえ」
縁之丞は前を向いたまま。
短く答える。
「優しかったし」
「すごく誠実だった」
「十歳も年上だから」
「すぐに答えを出さなくていいって言ってくれた」
「私がまだ学生だから」
「時間をかけて知り合えればいいって」
「ちゃんとしてるな」
「うん」
本子は素直に頷く。
「美術や音楽にも詳しかった」
「美術館では、絵や彫刻のことを教えてくれて」
「家では、ピアノも弾いてくれた」
「ピアノまで?」
「すごく上手だったよ」
「医者で」
「頭がよくて」
「美術にも詳しくて」
「ピアノまで弾けるのか」
「うん」
「俺と全然違うな」
「うん」
間を置くことなく。
本子は頷いた。
縁之丞が、本子へ顔を向ける。
「そこは否定してくれよ」
「だって、本当に全然違うし」
「少しくらい気を遣え」
「縁之丞が聞いたんでしょ」
「聞いたけど」
「じゃあ、正直に答えただけ」
本子は小さく笑う。
縁之丞も。
少し不満そうな顔をしながら笑った。
以前と同じ。
どうでもいいことで言い合う。
そんな時間が。
二人には、妙に心地よかった。
◇
「市之瀬さんといると」
本子は、穏やかな声で続ける。
「私の知らない世界を、たくさん見せてもらえた」
「美術館なんて」
「今まで行っても、何が面白いのか分からなかったけど」
「市之瀬さんと一緒なら、すごく楽しかった」
「水族館でも?」
「うん」
「魚のことだけじゃなくて」
「水槽の水の流れとか」
「照明のことまで教えてくれた」
「そんなところまで見るのか」
「縁之丞なら、絶対見ないよね」
「魚を見る場所だろ」
「そういうところが全然違うの」
本子は笑いながら言った。
「私が変なことを聞いても」
「馬鹿にしないで、ちゃんと答えてくれた」
「私の話も、最後まで聞いてくれて」
「心から尊敬できる人だった」
匠について話す本子の表情は。
穏やかだった。
嫌そうな様子など、どこにもない。
本当に。
楽しい時間を過ごしたのだろう。
縁之丞の胸の奥へ。
小さな痛みが生まれた。
自分とは、まるで違う。
立派な仕事を持ち。
多くの知識があり。
本子の知らない世界を見せることができる。
そんな相手と出会い。
本子は、心から尊敬していた。
「それなら」
縁之丞は。
できるだけ平静を装って尋ねた。
「市之瀬さんを選んでもよかったんじゃないか?」
本子は黙った。
「条件もいいし」
「優しいし」
「尊敬できるんだろ?」
「うん」
「これからも」
「知らないものを、たくさん見せてもらえる」
「そうだと思う」
「じゃあ」
縁之丞は、本子を真っ直ぐ見る。
「何で断ったんだ?」
◇
本子は。
すぐには答えられなかった。
匠に。
嫌なところがあったわけではない。
不満があったわけでもない。
むしろ。
知れば知るほど。
魅力的なところばかりだった。
あの人と結婚すれば。
きっと。
穏やかで、豊かな人生を送ることができる。
そう思えるほど。
申し分のない相手だった。
それでも。
匠の隣にいる間。
本子は何度も、縁之丞を思い浮かべた。
面白い魚を見れば。
写真を送りたいと思った。
美味しい料理を食べれば。
縁之丞にも食べさせたいと思った。
不格好なぬいぐるみを見つければ。
縁之丞へ買って帰りたくなった。
会話が途切れれば。
縁之丞との沈黙を思い出した。
匠と一緒にいる時間は。
本当に楽しかった。
それは。
嘘ではない。
もっと話を聞きたいとも思った。
もっと多くのことを、教えてほしいとも思った。
けれど。
どこかでずっと。
匠から良く見られようとしていた。
子供っぽいと思われないように。
退屈な相手だと思われないように。
何かを話さなければ。
笑わなければ。
この人に釣り合う人間に見せなければ。
そんなことを。
無意識に考えていた。
匠が、そうするよう求めたわけではない。
もっと話せと言われたわけでも。
賢く振る舞えと言われたわけでもない。
本子自身が。
勝手に、自分を飾ろうとしていた。
けれど。
縁之丞の隣では。
そんなことを考えたことがなかった。
面白いことを言えなくてもいい。
知らないことがあってもいい。
何も話さなくてもいい。
疲れていれば。
黙ったまま歩けばいい。
機嫌が悪ければ。
無理に笑わなくてもいい。
くだらない話だけで。
何時間でも、一緒にいられる。
何もない時間さえ。
当たり前のように、二人で過ごしてきた。
本子は。
少しだけ視線を落とした。
「縁之丞といる方が」
声が。
僅かに震える。
「普通だったから」
縁之丞は。
その言葉の意味が分からず。
本子を見つめた。




