第10話 恋人ごっこ
縁之丞はスマートフォンをテーブルへ置いた。
しばらく黙って考えた後、ふと顔を上げる。
「だったらさ」
「うん?」
「友達以上、恋人未満から始めてみる?」
本子は目を丸くした。
「どういうこと?」
「実際に、恋人っぽいことをしてみるんだよ」
「恋人っぽいこと?」
「ああ」
縁之丞は指を折りながら考える。
「例えば、デートとか」
「私たち、いつも二人で出かけてるよ」
「手を繋ぐとか」
「それも繋いでるね」
「一緒に飯を食べる」
「今、食べてるよ」
「家で二人きりで過ごす」
「それもいつも」
「飲み物を一口もらう」
「さっき私の飲んだでしょ」
縁之丞は、テーブルの上にある本子のアイスティーを見た。
確かに少し前、味が気になると言って一口もらっていた。
「……俺たち、もう大体やってるな」
「そうだね」
二人は顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。
恋人らしいことを挙げているはずなのに、思いつくものは、昔から当たり前のようにしてきたことばかりだった。
「じゃあ、何をしたら恋人になるんだよ」
「それを調べに来たんでしょ」
「調べても分からなかっただろ」
「縁之丞が考えて」
「本子も考えろよ」
「提案した人の責任」
「まだ何も始まってないのに?」
本子がくすくすと笑う。
縁之丞も呆れながら笑い返した。
少しだけ、先ほどまでの難しい空気が和らぐ。
けれど、笑いが落ち着くと。
縁之丞は、少し真面目な表情になった。
「でも」
「今までとは、一つだけ違う」
「何?」
「今までは、全部『幼馴染だから』やってた」
本子は小さく頷く。
「うん」
「今度は、恋人のつもりでやる」
「恋人のつもり……」
同じ手を繋ぐことでも。
同じ道を並んで歩くことでも。
ただ二人で出かけることでも。
幼馴染としてではなく、恋人としてしているのだと思えば、何かが違って感じられるかもしれない。
今まで何とも思わなかった行動に、別の意味が生まれるかもしれない。
「それで」
縁之丞が続ける。
「俺たちがお互いをどう思ってるのか、分かるかもしれない」
「恋人として好きなのかどうか?」
「ああ」
「本当に分かるかな」
「多分」
本子は思わず笑った。
「多分なんだ」
「やったことないんだから、分かるわけないだろ」
「確かに」
二人は顔を見合わせ、苦笑する。
絶対に上手くいくという確信はない。
それでも、検索結果を眺めて悩み続けるよりは、実際に試してみる方が分かりやすい気がした。
「もし」
本子が静かに尋ねる。
「やってみても、分からなかったら?」
「その時は」
縁之丞は少し考えてから答えた。
「普通の幼馴染に戻る」
「今と同じ?」
「今と同じ」
「本当に戻れる?」
本子の問いかけに、縁之丞はすぐには答えられなかった。
恋人の真似をして。
相手を今より意識するようになって。
それでも何も分からなかった時。
本当に、以前とまったく同じ関係へ戻れるのだろうか。
「……分からない」
縁之丞は正直に答えた。
「でも、何もしなくても、もう前とは少し違うだろ」
「許嫁だって知ったから?」
「ああ」
本子も昨日からの自分を思い返す。
同じ箸が触れそうになっただけで手を引いた。
いつも座っている部屋なのに、縁之丞の隣へ座ることを一瞬ためらった。
これまで何とも思わなかったことを、少しずつ意識し始めている。
「確かに」
本子は小さく頷いた。
「もう、完全に今まで通りではないかもね」
「だったら、ちゃんと確かめた方がいいと思う」
「うん」
本子はストローへ口をつける。
けれど、飲み物はほとんど減らなかった。
縁之丞と恋人の真似をする。
二人で出かける時も。
手を繋ぐ時も。
隣に座る時も。
恋人なのだと思って過ごしてみる。
そう想像すると、少しだけ胸が落ち着かなくなった。
嫌ではない。
むしろ。
少し面白そうだと思った。
「縁之丞は」
本子がグラスから顔を上げる。
「私とやってみたいの?」
「本子以外に、試す相手いないだろ」
本子は少し眉を下げる。
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「仕方なく私を選んだのかってこと」
「仕方なく?」
「許嫁だって言われたから、誰でもいいけど、とりあえず私で試してみようって思ったのかなって」
「誰でもいいわけないだろ」
縁之丞は、すぐに否定した。
本子が少しだけ目を見開く。
「本子だから、試してみようと思ったんだよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
縁之丞は言葉に詰まった。
本子となら、嫌ではない。
本子と恋人のようなことをしてみたいと思った。
けれど、その理由を説明しようとすると、上手く言葉が見つからない。
「ずっと一緒にいたから」
「それに、本子以外と手を繋いだり、二人で出かけたりするのは、あんまり想像できない」
「だから」
縁之丞は、真っ直ぐ本子を見る。
「本子だから、やってみたいと思った」
本子は何も答えなかった。
ただ、頬が少しだけ緩む。
「そっか」
「何だよ」
「別に」
「笑ってるじゃん」
「笑ってないよ」
「笑ってるだろ」
本子は照れ隠しのように、アイスティーを一口飲んだ。
「私も」
グラスを置き、縁之丞を見る。
「縁之丞となら、嫌じゃない」
「他の人と恋人の真似をするのは、何か違うと思う」
「でも、縁之丞となら」
本子は少しだけ視線を逸らした。
「やってみてもいいかなって思う」
「じゃあ、決まりだな」
「まだ」
「まだ何かあるの?」
本子はすぐには答えなかった。
指先でストローをゆっくり回す。
「もし、変になったら?」
「変?」
「今までみたいに戻れなくなったり」
縁之丞も黙り込んだ。
それだけは、二人とも少し怖かった。
恋人ごっこを始めたことで、喧嘩をするかもしれない。
相手のことを嫌になるかもしれない。
これまで当たり前だった距離が、壊れてしまうかもしれない。
幼い頃から積み重ねてきた時間は、二人にとって何よりも大切だった。
気持ちを確かめるために、それを失ってしまっては意味がない。
しばらく考えた後、縁之丞が静かに言う。
「無理はしない」
「うん」
「どっちかが嫌だと思ったら、その時点でやめる」
「分かった」
「変なこともしない」
「変なことって?」
「それは……分からないけど」
「分からないんだ」
「恋人が何をするかも分からないんだから、仕方ないだろ」
本子が小さく笑う。
「それもそうだね」
「それに」
縁之丞が続ける。
「何かあったら、ちゃんと話す」
「今までみたいに?」
「ああ」
「喧嘩しても、次の日にはいつもの場所に来る?」
「それは絶対」
縁之丞は迷わず答えた。
本子の表情が、柔らかくなる。
「それなら……大丈夫かな」
「面白そうだろ?」
「遊びみたいに言わないでよ」
「恋人ごっこなんだから、遊びみたいなものだろ」
「そうだけど」
二人は顔を見合わせる。
少しだけ照れくさい。
少しだけ不安もある。
けれど、それ以上に。
今までとは違う関係を試すことへの、小さな期待があった。
本子は一度息を吸う。
そして、照れくさそうに視線を逸らしながら口を開いた。
「じゃあ……」
「恋人ごっこ、してみる?」
縁之丞は、本子を真っ直ぐ見つめる。
それから、小さく頷いた。
「やってみよう」
許嫁だからでもない。
両親から言われたからでもない。
お互いの気持ちを知るために。
二人は自分たちの意思で、幼馴染とは少しだけ違う関係を始めることにした。
ずっと普通だった幼馴染との恋人ごっこが。
この日、静かに始まった。




