牡羊座の優等星⑥
ふと、目の前に紅い蝶がヒラリヒラリと舞い上がった。
その翅は霧の中で不思議な光を帯び、鮮血のように赤く輝いている。
——まさか、幻子か?
俺は咄嗟にそう思い、胸の奥がザワついた。
黒髪の淑やかで儚げな少女の顔が脳裏に浮かび、冒険の記憶と最果ての地の虚無が一瞬で交錯する。
期待と警戒が、胃の底で重く渦巻いた。
紅い蝶を目で追うと、社殿の奥からだった。
古びた神棚の扉の隙間から淡い紅の光が溢れ出し、周囲の白い霧を紅葉のように染め上げる。
空気がわずかに震え、湿った土と朽ち木の匂いに、甘く金属的な香りが混じった。
突如、社殿の奥で光が爆発した。
赤よりも濃く、深い紅の光の柱が天井を突き破るように立ち上り、まるで血を噴き上げる血柱のようだった。
光は激しく脈動し、影を長く引き伸ばし、紅い鳥居の列を不気味に照らし出す。
俺は思わず目を細め、後ずさった。
ブーツの裏が湿った苔を踏み、滑りそうになる。
心臓がバクバクと激しく鳴り響く。
それは恐怖か期待か、自分でも区別がつかない。
光がゆっくりと収束していく。
その中心に、人影が浮かび上がり、ひとりの女の子が立っていた。
「うわぁ……!」
思わず声が漏れた。
紅い光の中から現れたのは、長い金色のポニーテールが印象的な女の子だった。
金色の髪は薄暗い霧の中でも負けじと輝き、わずかな光を浴びてキラキラと反射する。
大きな青い瞳は深海から生まれた宝石のように澄み切り、俺の視線を強く釘付けにする。
その瞳の奥には、無邪気さとどこか計算されたような輝きが混在していて、ゾクリと背筋が震えた。
首から下は白いマントを羽織った淡い黄色の可愛らしい衣装。
タイトなミニスカートが胸元や腰のラインを強調し、幼い顔立ちと成熟した身体のギャップが、思わず息を飲む程に魅力的だった。
霧の中で浮かび上がるその姿は、この廃れた社殿に不釣り合いなほど鮮やかで、虚無の世界に一瞬の色彩を吹き込むようだった。
「可愛い……ッ!」
頰が熱くなり、思わず声に出してしまった。
ミーシャの凛々しい笑顔やイメドダの神秘的な美しさとはまた違う、明るくあざとい魅力に、心が揺さぶられる。
これは現実なのか?
それともまだ冒険の夢の続きを見ているのか?
あっ、頭に白い翼のようなアクセサリーが付いたカチューシャがある。
何だか俺の翼が付いたサークレットに似ているなぁ。
お揃いになるのか。
えへへ、参ったなぁ…。
…あぁもう!
今はこんな状況じゃないのに、俺ときたら!
参ったなぁ…。
こんな状況で複数の女の子に惹かれる自分に、自己嫌悪すら覚えた。
彼女は優雅に一歩、社殿の階段を降りてきた。
足音は軽やかで、ミニスカートの裾がふわりと揺れる。
「いやぁ〜、何も出来ずにヤられちゃったなぁ〜!」
明るい声が、霧を切り裂くように響いた。
「オ疲レ様デス、ディケヤミィ。アノ時、相手ノ攻撃ヲ回避シタ後ニ背ヲ向ケタ事、今回ノ反省点デス。」
イメドダが鎖をカチャリと鳴らしながら彼女の元へ歩み寄る。
機械的な声に、わずかな労りの響きが混じっていた。
「だってぇ〜、そもそも私、料理人だもんっ♪」
金色のポニーテールを大きく揺らしながら、テヘッと舌を出して笑う姿が、愛らしい。
右手には信じられないほど大きな黄金のお玉——料理用の杓が握られ、橙色のグローブをした手がしっかり柄を包んでいる。
お玉の表面は残った紅い光を反射し、眩しく輝いていた。
ちょっとあざとい仕草も、何故か自然で魅力的だ。
イメドダのミステリアスで壊れやすい美しさとは対照的な、生き生きとした美少女。
参ったなぁ……。
人形のような謎めいた美少女と、魔法少女めいた明るい美少女。
どちらも心を掴んで離さない。
この最果ての地で、俺はまた新たな「仲間」に巡り会っているのか?
それとも、これも罠なのか?
胸の奥で希望と疑念が激しくせめぎ合い、頭が痛くなるぐらい混乱した。
俺がそんなことを考えていると、ポニーテールの女の子——ディケヤミィが俺に気づいたようだ。
「あら、モミジ君…じゃなくて、ユーシャ君じゃないの! お久し振り♡」
とびっきりの可愛い笑顔を向けられ、俺は圧倒されて後ずさってしまった。
甘い声と視線が、胸の虚無の穴に直接突き刺さるようだった。
「えっ、ええぇ……だだだ誰だっけ?」
勢いに飲まれ、声が上擦る。
彼女が俺を知っているような口ぶりに、驚きが広がった。
幻想町を救った英雄として顔を知られているのは理解できるが、"お久し振り"という親しげな響きは、俺の記憶にない。
「私はねぇ、ディケヤミィよ。ユーシャ君から『黄色いゴブリン』って呼ばれて倒されたんだけど、覚えて……いないよね?」
「え、えぇ…?」
いや、確かに黄色いゴブリンを倒した記憶はある。
だが、あの戦いの相手が、こんなに可愛らしい女の子だったなんて——信じられない。
俺は本当に彼女をゴブリン呼ばわりして剣を振るったのか?
記憶の齟齬に、自己嫌悪と罪悪感が込み上げる。
彼女の右肩には緑色のアホ面をしたカエルのパペット人形が乗っかり、足元にはペンギンのパペットと真っ赤なタコ型ウィンナーのぬいぐるみが、キョトンとした顔で俺を見上げていた。
その愛らしいのにどこか不気味な視線が、俺の警戒心を更にに煽る。
「え、いや……記憶にないなぁ。」
こんな特徴的で可愛い女の子を、忘れられる筈がないのに。
頭の中で過去の戦闘シーンがフラッシュバックするが、すべてがぼやけ、霧に包まれたように曖昧だ。
幻子の仕業か?
それとも俺が忘れている何か重大な出来事か?
不安が波のように押し寄せる。
「という事は、幻から覚めたんだよね、良かった♪」
彼女はくすくすと笑い、大きなお玉を軽く回した。
黄金の部分が社殿の淡い光と霧越しの光を反射し、眩しい弧を描く。
「幻?」
俺は小さく呟いた。
その言葉が、胸の奥に重く突き刺さる。
今までの冒険は、全部幻だったのか……?
ミーシャやサーシャとの血塗られた戦場、幾千の夜を共にした焚き火の会話、魔女ユユルを倒した瞬間の達成感、王都の広場で響き渡った幾万の歓声、そして頭にのせられた金冠の冷たい重み——
あれら全てが、俺の幻覚に過ぎなかったというのか?
胸の奥が激しく抉られるような痛みが広がった。
「やっぱりソレも幻子の仕業なのか……?」
俺は世界を救った勇者などではなかった。
ただの操り人形。
救世主などという幻想すら、幻子が作り上げて与えた一時的な夢だったのかもしれない。
仲間達との絆も、努力も、勝利も、全てが偽りだったとしたら……。
違う。
少なくとも、ミーシャは確かに存在していたんだ。
だが、ミーシャが俺のせいで落選し、消えたという事実は、もう取り返しのつかない現実として突き付けられている。
虚無感が波のように押し寄せ、息が苦しくなる。
指先が冷たく痺れ、足元がふらつく。
今までの冒険も、これからの事も全てが無意味だったとしたら、俺は何を信じて生きればいい?
この最果ての地だと思われる、幻子の"家"だと呼ばれる場所で目覚めた俺に希望などあるのだろうか?
涙が込み上げそうになるのを、必死に堪えた。
唇を噛み締め、血の味が口の中に広がる。
「私達じゃないけどね。」
ん?
"私達"?
聞き間違いか?
それとも彼女、幻子の後ろに、まだ誰かいるのか——。
霧が再び濃くなり、紅い鳥居の影が長く伸びる中、俺の心は新たな謎と、抑えきれない動揺で満たされていった。
この出会いが希望の光か、それともさらに深い虚無への序章か、判断がつかない。
ただ、胸の鼓動だけが、激しく鳴り続けていた。




