牡羊座の優等星③
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俺の名前は桜丘勇沙。
俺は1度だけ、本当に1度だけなんだが…
――“ゲンソウ町”という世界を救った勇者だ。
突然現れた黒髪の美少女、蝶想幻子に引きずり込まれるように異世界へ転送され、訳も分からぬまま"世界を救って"と頼まれた。
あの頃の俺は、家族から将来を諦められて見捨てられた、役立たずで冴えない青年だったのに…。
女剣士ミーシャと魔法少女サーシャと共に、血と泥と絶望にまみれた戦場を駆け抜け、幾千の夜を語り明かし、互いの傷を舐め合うようにして生き延びた。
笑い、泣き、怒り、抱き合い、協力し合い、そして最後にゲンソウ町を支配していた星の魔女ユユルを討ち倒した。
民衆は俺を"救世の勇者"や"世界の有家名と呼び、王都の広場で盛大な戴冠式が執り行われた。
大理石の白い柱が天を支える、神殿のような広間。
色とりどりの旗が風に翻り、銀の鐘が重厚に響き渡り、幾万もの人々が俺の名を叫び続けた。
空気は熱気と汗と花の香りで満ち、胸の奥まで震えるほどの歓声が俺を包み込んだ。
緊張と興奮のせいで真紅の絨毯を歩く足が、わずかに震えていた。
磨き上げられた玉座に腰を下ろすと、冷たい石の感触が尻から背骨へと這い上がる。
大司教が金の柄杓で聖水をすくい、俺の頭上にゆっくりとかけた。
ヒヤリとした水滴が額を伝い、睫毛に引っかかり、首筋を滑り落ちる。
その冷たさが、初めて"現実"だと実感させた。
そして、重たい金冠が頭頂部に置かれた瞬間――
――バチバチッ!
脳の奥で何かが弾け、視界が真っ白に染まった。
耳鳴りが全身を貫き、意識が引き裂かれるような痛みが走った。
……
……あれ?
目を開け、そこにあったのは、歓声でも、輝く王冠でも、仲間達の笑顔でもなかった。
ただ、薄暗く、息苦しい森。
濃密な白い霧が、視界を十数メートル先までしか許さない。
木々の間を縫うように漂う靄は、まるで生き物のようにゆっくりと蠢き、時折俺の頰を冷たく撫でていく。
空気は湿り気を帯び、暖かくもなく冷たくもなく、ただ肺の奥に重く淀む。
風はなく、葉擦れの音すら聞こえない。
世界全体が、音を殺されたように静まり返っていた。
遠く、微かに――波の音がする。寄せては返す、寄せては返す、規則正しいリズム。
しかし、木々の隙間から覗く空は鉛色で、太陽の位置すら定かではない。
この森が海に面しているようには、どう見ても思えなかった。
そして、何より異様な光景が、俺の心臓を鷲掴みにした。
少し離れた場所に、等間隔でずらりと並ぶ、無数の紅い鳥居。
一本、また一本、また一本。霧の中に沈みながらも、鮮烈な紅色だけが不自然に浮かび上がっている。
紅は血のように濃く、まるで"ここから先はもう違う世界だ"と警告する為の死者の標識のように、戴冠式の華やかな金色や真紅の絨毯とは正反対の、冷たく無機質な紅だった。
鳥居の向こうは更に深い霧に包まれ、果てしなく続いているように見えた。
「……まさか!」
喉の奥から、乾いた掠れた声が漏れた。
「幻子!!いるんだろ!?」
大声で叫ぶ。
しかし霧が声を吸い込み、反響すら返ってこない。
叫んだ瞬間に音ごと飲み込まれたかのようだった。
「幻子ッ!!」
もう一度、喉が潰れそうなほど叫んだ。
もはや雄叫びに近い叫びだった。
だが、俺の声は虚しく霧の中に溶け、波の音だけが、まるで嘲るように少しだけ大きくなって返ってきた。
「……畜生。」
膝が崩れ、革のブーツが湿った腐葉土に沈み込む。
冷たい。
指先で地面を掴むと、腐った葉と土の生臭い匂いが鼻を突いた。
体は確かにここにある。
息もしている。
心臓も、耳の奥で激しく鼓動を打っている。
指を握り、開き、鎧の冷たい感触を確認しても、全てが現実だった。
「……は、はは……」
乾いた笑いが喉から零れた。
あれほど輝いていた世界が、こんな虚無に変わるなんて。
民衆の熱狂的な歓声はどこへ消えた?
ミーシャの誇らしげな笑顔、サーシャの無邪気な瞳、俺の名を叫び続けた幾万の声、頭に被せられた金冠の重み――全てが幻だったのか?
それとも、あの戴冠式こそが本当で、今ここにいる俺は、死んだ後の残像に過ぎないのか?
胸の奥に、ポッカリと巨大な穴が空いた。
栄華の記憶が鮮やかであればあるほど、今のこの虚無は深く、冷たく、容赦ない。
指先は確かに感覚があり、息もでき、心臓も鼓動を打っている。
白い軽鎧に青いローブ、赤いマントも、さっきまで戴冠式にいたままの姿だ。
なのに、全てが色褪せて見える。
世界から"意味"が剥ぎ取られたような、底知れぬ喪失感だけが俺を支配していた。
あれは、"現実"じゃなかったのか?
『この世界は死んだらね、天国なんかじゃないの。最果ての地で、次の転生を待つだけ。そこにはね、果てしなく紅い鳥居が続いてるのよ。』
旅の途中、夢の中ではいつも幻子と焚き火を囲んで話をしていた。
1日1日を振り返り、歓びを分かち合ったり、占局という名の戦いの反省をしたり、仲間達について相談をしたり…。
ある夜の夢の中、幻子がポツリと零した言葉が、脳裏で蘇る。
『私はね、勇沙君と会えない間は、ずっと最果ての地で転生を待っているの。夢の中じゃなくて、現実の勇沙君に出逢える為に。』
あの時の彼女の紅い目は、どこか寂しげで、どこか諦めた色をしていたが、その瞳の意味を、今、ようやく理解した気がした。
「……ここが、その最果ての地、か?」
ゆっくりと立ち上がり、霧の向こうに続く紅い鳥居の列を睨んだ。
言葉に出来ない程の虚しさと悔しさに堪え切れず、マントを強く握り締め、唇を噛んだ。
血の味がした。
「……幻子。お前、どこにいるんだよ!?」
叫びは霧に吸い込まれ、虚しく消えた。
波の音だけが、まるで嘲笑うように、少しだけ大きく響いた。
俺は、騙されたのか?
栄光の頂点から、一瞬で奈落の底へ。
救世の勇者だった俺は、今、ただの孤独な亡霊のように、この果てしない紅の門の間に取り残されていた。




