牡羊座の優等星④
「オ目覚メデスカ?」
不意に、霧の奥底から女の子の声が響いた。
それはヒトはヒトでも、生の声ではなかった。
古びたラジオのノイズのように、金属とガラスが擦れ合う乾いた歪みを含み、微かなエコーが混じる。
少し幼く無垢な響きを残しつつ、どこか機械的で、壊れかけた玩具のような哀しさを帯びていた。
俺は足を止めた。
同時に心臓が大きく跳ね、背筋を冷たい戦慄が駆け上がる。
戴冠式の熱狂と歓声がまだ耳に残る中、この虚無の森で聞く声は、あまりにも不吉で、異質だった。
「誰だ!?」
威嚇するように声を張り上げ、マントの下で剣の柄に手をかけた。
革と鋭い鋼の重い感触が、確かにある。
まだ、戦える。
「隠れていないで出て来い!」
俺は世界を救った勇者だ——
そう自分に言い聞かせるが、声はわずかに震えていた。
俺の声に応えるように霧がゆっくりと渦を巻き、左右に裂けていく。
巨大な白いカーテンが引かれるように靄が分かれ、そこから現れた少女の姿に、俺は言葉を失った。
長い緑の髪が、複数の蛇のようにきつくロール状に巻かれ、足元まで達して地面を這っている。
黄金の装飾鎖がその髪に複雑に絡みつき、彼女の動きに合わせて重くカチャリと鳴る。
白いロングドレスは純潔を思わせるほど清らかだったが、幾重にも巻きついた鎖がその美しさを永遠に縛り、拘束しているように見えた。
鎖は彼女を守るかのように、または罰するかのように優雅に揺れ、地面を引く金属音が霧の中に寂しく溶けていく。
胸元と頭部の左右には、鮮烈な濃いピンク色のカンパニュラの花が咲き、中心から細い黄金の触角が突き出している。
その先端で青白い小さな雷がチリチリと弾け、湿った空気に微かなオゾンとビニールの匂いを漂わせた。
そして、瞳は透き通ったエメラルドグリーン。あまりにも澄み過ぎていて、こちらの魂まで吸い込まれそうな、底知れぬ深淵があった。
「美しい……。」
思わず呟いてしまった。
人間ではない。
マネキン人形でもビスクドールでもない。
もっと人工的で、儚く、壊れやすい何かなのに、異様な魅力で俺の目を釘付けにした。
戴冠式の華やかな金色や真紅の絨毯とは対極の、冷たく幻想的な美だった。
「ワタクシ、α-ND6イメドダ。幻想町デハ、ミーシャ様とユーシャ様ノメイドヲ勤メテオリマシタ。」
唇はほとんど動いていない。
声は直接鼓膜を震わせ、頭蓋の内側に響く。
機械的な抑揚の中に、ほのかな哀しみが滲んでいた。
「ミーシャのメイドだと!?」
俺の声が上擦った。胸の奥が激しく痛む。
ミーシャ——厳しくて、熱くて、俺を叱咤し、俺を何度も救ってくれたあの女剣士にメイドがいた?
彼女の屈託の無い笑顔と圧倒的な剣閃が脳裏をよぎる。
初耳だ。
——っていうか、ちょっと待て。
ミーシャと、"俺の"メイド?
彼女とは、今ここで初めて会ったのに?
初めて聞いた名前なのに?
…あぁ、あれだ。
ゲンソウ町を救って、王と王妃になる予定だった俺とミーシャのメイドなのかな。
……俺とミーシャが?
あの後、俺とミーシャが結婚するのか?
やっぱりちょっとおかしいな。
確かに俺に対するミーシャの好感度はそこそこ高かった。
だが、残念ながらそれは友情に近いものであって、夫婦になるような恋愛関係までは発展しなかった。
…って、何を考えているんだ俺は。
恋愛ゲームのプレイヤーみたいな事を現実で考えているなんて。
「ミーシャはどこにいるんだ!?」
取り敢えず、彼女はミーシャの関係者だ。
ミーシャに話を聞いた方が早い。
イメドダは首をわずかに傾げ、鎖がカチャリと寂しい音を立てた。
一歩近づいてくる。
足音はない。
ただ花弁の擦れる微かな音と、鎖の重い金属音だけが、虚無の森に響く。
「ミーシャ様ハ貴方様ノセイデ落選シ、異世界へ消エマシタ。」
「落選……死んだって事か?俺のせいで?」
膝がガクリと崩れそうになった。胸にぽっかり空いた虚無の穴が、さらに深く抉られる。
俺が玉座に座り、金冠を被ったあの瞬間——全ての苦労が報われたはずの栄華が、実はミーシャを消し去る罠だったというのか?
世界を救ったはずの俺の選択が、仲間を消し去る結果になったというのか?
意味が分からない。
頭が痛いほど混乱する。
「どういう意味だよ……説明しろ!」
イメドダは静かに、透き通ったエメラルドグリーン色の瞳で俺を見つめ続ける。
「貴方様ハ罠ニハメラレ、ソレニ伴イ、ミーシャ様ハ落選シテシマイマシタ。」
「……嘘だろ?」
声が掠れた。
拳を握りしめると、爪が掌に食い込み、痛みが現実を教えてくれる。
「データガ残ッテマス、嘘デハアリマセン。」
イメドダの黄金の触角が小さな火花を散らし、赤いカンパニュラが哀しげに揺れた。
どうやら本当の話のようだ。
悔しい。
俺は悪の魔女を倒した勇者だった筈なのに、実際は利用され、今はただの喪失感に囚われた亡者に成り下がったのだから。
「なら、俺はどうすりゃいい……ミーシャを取り戻す方法はあるのか!?」
「異世界へ転生サレテハ…」
「ちょっと待て、異世界に転生!?ゲンソウ町には戻せないのか!?」
「ドウニモナリマセン。」
彼女はゆっくり首を左右に振る。
しかし、何か閃いたのだろうか、透き通った瞳に初めて微かな光を宿した。
「……デスガ。貴方様ガ此処ニ現レタノナラ、新タナ世界線デ、再ビ会エルカモシレマセン。」
俺は息を呑んだ。
絶望の底に、わずかな希望の灯がともる。
霧が再び濃くなり、紅い鳥居の列が俺たちを囲むように近づいてくる。
イメドダは小さく微笑んだように見え、鎖を優しく鳴らした。
「ツイテ来テ下サイ、ユーシャ様。」
長い緑の髪を揺らし、先に歩き出す。
獣道はすぐに途切れ、苔むした古びた石段が現れた。
一段ごとに紅い鳥居が立ち、等間隔で果てしなく続いている。
鳥居をくぐるたび、空気が重く変わり、湿った土と古い杉の匂いが強くなった。
霧は薄れ、代わりに淡い灰色の光が木々の隙間から差し込む。
石段は急になり、息が上がる。
足元は滑りやすく、腐葉土がブーツの裏にへばりつく。
シャラン、シャラン…
イメドダは長いドレスと高いブーツ姿なのに、疲れた様子もなく、鎖を軽やかに跳ねさせながら登っていく。
頭の赤い花から小さな雷がパチッ、パチッと弾けるたび、周囲の空気がわずかに震えた。
「ここは一体何なんだ?」
「本来ナラバ、存在シナイ場所デス。ココハ、蝶想幻子様ノ夢世界デス。」
彼女の声は淡々と響く。
ここが、幻子の夢世界?
俺が夢の中で幻子と話をしていた場所と違うけれど…。
石段を登るに連れ、紅い鳥居の朱が視界を埋め尽くし、まるで血の道を歩いているような気分になる。
背後を振り返ると、先ほどまでいた場所はすでに濃い霧に吞み込まれていた。
胸の奥では、仲間を失った喪失感と、この不思議な出会いへの期待が、激しく渦巻いていた。
俺は見失わないよう、イメドダの後を追い続けた。




