ワームホールの先星⑲
霧の奥でミミズを飲み込んだ瞬間、胸の奥がグニャグニャと捩じ曲がるような、臓器そのものがグルグル捻じれる不快な感覚に襲われた。
胃の中で蠢いていたモノが、食道を逆流するように這い上がり、喉の奥を塞ぐ。
吐き気と、得体の知れない甘い腐臭が鼻腔を満たす。
視界が白く溶け、耳の奥で女の子の甲高い笑い声が反響しながら遠ざかっていった。
代わりに、冷たい潮風が頰を強く叩く。
ふわっと体が浮かぶような、底なしの闇に落ちるような、上下も前後もわからない浮遊感に包まれる。
世界がぐるぐると回転し、意識が引き裂かれるような痛みが走った。
そして――
「ウワッ!?」
体がビクリと跳ね、目がパチリと開いた。
息が荒く、喉がカラカラに乾いている。
冬の朝の冷たい空気が、針のように頰を刺し、肺の奥まで染み込んでくる。
カーテンの細い隙間から差し込む薄い灰色の光が、天井をぼんやりと照らし、埃の粒子がゆっくりと舞っている。
外はまだ薄暗く、窓ガラスに霜がうっすらと張り付き、淡い模様を描いていた。
吐く息が白く、部屋の中がヒンヤリと冷えている。
湿った冷気が肌にまとわりつき、鳥肌が立った。
「……嫌な夢……。」
ポツリと呟いた声は、かすれて掠れ、喉の奥が痛む。
それに、舌の裏側にまだ土と生臭い、ねっとりとしたミミズの味が残っている気がして、胃がムカムカと逆流しそうになる。
何で夢の中でもミミズを食べなくちゃいけないのよ。
忘れたかった出来事を再び掘り起こされるなんて、本当に嫌になっちゃう。
何か美味しい物でも食べて、忘れたいな。
体を起こそうとして腰の横に手を置いた。
サラサラ…。
あれ?
シーツの感触に違和感を覚えた。
柔らかいピンクのフワフワ毛布の筈なのに……。
今触れているのは、サラサラとした白いシーツ。
冷たくて、少し硬い。
ベッドの感触も違う。
ふかふかでは無くて、簡素で、固めのマットレス。
枕も薄く、真っ白になっている。
ベッドはシングルサイズで、シーツは保健室や病院のような無機質な白。
少し、ツンとした化学的な匂いがする。
何かが、おかしい。
「え?」
いつの間にか、ピンクのヒラヒラしたパジャマじゃなくて、白いワンピースに黒いリボンが特徴の学校の制服に変わっている。
どういう事?
慌てて周りを見回す。
「……モモカ?」
隣で寝ていた筈のモモカがいない。
小さな黒い体が、胸に寄り添ってゴロゴロと喉を鳴らして眠っていた筈なのに。
部屋も……自分の部屋じゃない!?
見慣れた勉強机がない。
壁に貼ったカラフルやカレンダーも、積み重なった本の山も、埃っぽい勉強机すらもない。
代わりに、広い白い壁が冷たくそびえ、天井は異様に高く、暗い空間を強調している。
天井から垂れ下がった古びたランプの中に、小さな蝋燭が一本だけ頼りなく揺らめいている。
窓は天井に届きそうなほど大きく、外は濃い霧がかかったようにぼんやりと白く、まるで外の世界がまだ存在していないかのようだった。
ここは……、どこ?
また他の夢を見ているの?
それとも、誘拐された?
心臓がドクドクと速くなり、息が浅くなる。
体が小刻みに震え、シーツを握り締める指先が真っ白になる。
現実か、夢か。
どっちかわからない。
頭がぐるぐると回り、現実と夢の境界が溶けてグチャグチャになる。
胸の奥が冷たい手で締め付けられるような恐怖が、じわじわと広がっていく。
「おはよう、ヒキちゃん。」
柔らかい声が、部屋の隅から聞こえた。
ゆっくりと顔を上げると、そこには不思議な少女、まーちゃんが立っていた。
いつもの優しい笑顔。
制服に包まれた細く柔らかそうな体、長く艶やかな黒髪が、わずかに差し込む朝の薄明かりに淡く輝いている。
「おはよう……?」
良かった、まーちゃんだ。
ちょっと緊張が解けたからか、思わず声が震える。
まーちゃんがここにいるって事は、夢の世界?
でも何でだろう、心が落ち着かない、安心出来ないのは。
まーちゃんは、ゆっくりと近付いて来る。
足音が床に優しく、しかし妙に響く。
「いくら呼んでも全然起きてくれなかった…、から、でも、良かった、間に合って……。」
途切れ途切れに喋るまーちゃん。
その言葉の直後、まーちゃんの周りに、紅い蝶々が舞い始めた。
一匹、二匹……十匹、二十匹、三十匹と増えていく。
血のような鮮やかな紅く輝く羽が、冷たい空気の中でヒラリヒラリとゆっくりと回転する。
羽音はかすかで、微かな紙が擦れるような音を立てながら、部屋の冷気を切り裂く。
美しい光景の筈なのに、どうしてだろう…。
どこか禍々しく、胸の奥がザワザワする。
再び、まーちゃんの方へ視線を戻した瞬間——
「え?」
まーちゃん?
声が、喉の奥で詰まる。
まーちゃんの腹部に、長い刃物が突き出ていた。
銀色の細長い刃が、後ろから深々と突き刺さって、柄まで半分以上沈んでいる。
白い制服を鮮血がジワジワと紅く染めていく。
血は滴り落ちる度に空中で形を変え、紅い蝶々となって羽ばたく。
蝶々が、次々と羽ばたき、まーちゃんの周りを回る。
鉄錆のような生々しい血の臭いが部屋全体に広がり、鼻の奥を焼く。
「まーちゃん!?」
叫び声が、喉から飛び出した。
体が跳ね上がり、ベッドから転げ落ちそうになる。
でも、体が動かない。
また、動かない。
ただ、さっきまで見ていた夢の中とは違って不思議な力では無く、恐怖で硬直している。
まーちゃんの背後に、ゆっくりと別の影が現れた。
白いシスター服。
真っ白なシスター服にホッケーマスクで顔を隠した、不気味な長身の女だった。
長い白髪を真っ赤なビーズで2つのお下げに結び、その特徴的な髪飾りが血のように赤く光る。
くすんだ豆乳色のお面には複数の穴が開き、その中でも特に大きな2つの穴の奥から、真っ赤な目がこちらをジッと見つめている。
右手に握られた長い牛刀が、血を滴らせながらゆっくりと引き抜かれる。
銀色の刃に付着した血がポタリ、ポタリと床に落ち、そのたびに紅い蝶々へと変わる。
「悪い子は、だぁれ、だ?」
低く、軋んだ木みたいな掠れた声。
ホッケーマスクの奥から、クスクスと笑い声が漏れる。
隙間から覗く血のように赤い目が、細く輝く。
まーちゃんの体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
体が震え、息が止まる。
これは、夢?
現実?
どっちでもいい。
怖い。
怖い。
まーちゃんの体が、ゆっくりと溶けて、蝶々へと変わる。
床に広がっていく鮮血の中で、彼女の体が溶けるように崩れ始め、無数の紅い蝶々へと変わっていく。
蝶々が部屋いっぱいに舞い上がり、私の視界を埋め尽くす。
紅い蝶々が、私の顔に触れる。
冷たくて、湿った感触。
血の匂いが、鼻を突く。
「……嫌だ……。」
小さな声が、喉から漏れた。
これは、悪い夢。
これは、現実じゃない。
夢なら、早く醒めて…!
視界が、紅く染まる。
蝶々が、全てを覆い尽くす。
霧のような紅と、恐怖が、全てを飲み込んだ。




