ワームホールの先星⑰
◇
視界がぐにゃりと歪んだ。
まるで水面に映った景色を指で掻き乱したように、世界の輪郭が溶け合い、色が滲む。
目蓋の裏の暗い闇がゆっくりと薄れ、代わりに白くぼんやりとした霧が、乳白色のヴェールのように浮かび上がってきた。
何だろう?
これはもしかして、夢?
それとも、壊された筈の記憶の欠片が勝手に蠢き出したのだろうか?
胸の奥でザワザワと蠢いていた得体の知れない感情が、ゆっくりと形を取り始める。
寒さは感じないのに、体全体が鉛のように重くなり、息が浅く、苦しくなる。
霧のようなものが、ふわぁと頭の中を満たしていく。
肺に染み込む空気は冷たく湿り、微かな土と花の甘い腐臭を帯びていた。
いつの間にか、霧が濃い場所にいた。
でも、視界は誰かの足元しか捉えられない。
赤いおでこ靴と、紫色の薔薇が飾られている白い靴。
2人分の靴が、霧の白いヴェールの中で、ぼんやりと浮かんでいる。
赤い靴の表面は、光沢のあるエナメルで、霧の湿気を弾いて小さな水滴がツヤツヤと宝石のように光る。
白い靴の紫の薔薇は、布地でできた柔らかな花びらが幾重にも重なり、中心の金糸の刺繍が、かすかな光を受けて妖しく輝いている。
でも周りは灰色がかった白。
視界の端が溶けるようにぼやけ、息を吸う度に、冷たく湿った空気が肺に染み込む。
霧の粒子が肌に触れ、細かな水滴となって頰を伝う。
濡れた頬が気になって、拭おうとした。
でも、体が動かない。
足の指一本、首の傾げすら、動かせない。
まるで透明な糸で全身を縛り付けられたように、硬直している。
それに、視界を動かすことすら出来ない。
ただ、目の前の霧と、2人分の靴を見つめるしかない。
自分の心臓の音だけが、耳の奥でドクドクと異様に大きく響き、鼓膜を震わせる。
『ルホナジコチリモツツ〜、ミユノコルホチエゴイ、ツノナマクホチリゲタ、トエッチイケ〜♪』
目の前には2人しか見えない筈なのに、男女混声の合唱団のような不気味な歌声が、霧の奥から四方八方から湧き上がってくる。
低く甘く響く男声と、高く澄んだ女声が幾重にも重なり、まるで何十人もの喉が一斉に開いたかのように、湿った空気を震わせる。
意味不明の歌詞が、霧の奥底から這い上がってくる。
低く太い男声が大地を震わせ、高く透き通った女声が頭蓋の内側を鋭く掻き毟る。
数十の声が重なり合いながらも、それぞれが微妙にずれたタイミングで歌う為、歌全体が不協和音のように捻じれ、歪む。
粘つくような低音が胸の奥に響き、息を詰まらせ、甘く溶けるような高音が耳の奥で絡みつき、脳を甘く痺れさせる。
旋律は優しさと哀しみを孕みながらも、どこか狂気めいた愉悦を感じさせる。
歌声はただ響くだけでなく、霧そのものを震わせ、粒子一つ一つを踊らせるように渦を巻かせた。
低音が骨を、 高音が神経を直接震わせ、動けない体の中で心臓だけが激しく暴れ狂い、おかしくなりそう。
「も〜!何なのよ!!」
小さな女の子の苛立ち声が、歌声の隙間を切り裂く。
赤い靴が地面を何度も踏み付ける。
ドン、ドン、と乾いた音が霧に吸い込まれながらも、胸に響く。
苛立ちが、霧を少しだけ揺らす。
赤い靴の踵が地面を抉るように、土の粒子が飛び散る。
「アナタ達!しっかりしなさいよ〜!」
不規則な風がピュウピュウ吹き始め、霧が渦を巻く。
遠くから、ザワザワと荒れる海の波が岩に打ち寄せる音。
太陽からの光も切れかけた電灯みたいにチカチカ点滅し、地震でも起きたみたいに視界がグラグラ揺れる。
体が固定されているのに、揺れが内臓を揺さぶる。吐き気が込み上げる。
霧が白く渦巻き、視界が一瞬白く染まる。
赤い靴が慌てふためき、あちこち歩き回る。
霧の中で、小さな足音とスカートのフリルがパタパタと乱れる音が霧の中でやけに大きく響く。
赤いエナメルの表面が、霧の水滴を弾いて光る。
「こうなったら最後の手段よ!」
パンパンッ!
歌声が流れる中、小さな手を叩く音が響く。
乾いた拍手が、霧を切り裂くように鋭い。
空気が震え、霧の粒子が一瞬散る。
「さてさて、お呼びでしょうかいのぅ?」
ゆったりとしているけど、口笛みたいな、うぅん、ネズミみたいなとんでも無く甲高い金切り声。
耳の奥でキーンと響き、頭が痛くなる。
姿は見えない。
だけど、誰かがやって来た。
霧の奥から、重く淀んだ気配がゆっくりと近付いて来る。
空気が一層重くなり、息苦しさが喉を締め付ける。
霧の向こうで、何かが蠢く不気味な影が、ぼんやりと浮かび上がる。
「取引よ!あの悪夢乙女をぶっ潰して!!」
女の子が命令する。
声に苛立ちと焦りが混じり、赤い靴が地面を強く踏む。霧がその衝撃で少し揺れる。
「それではお主に、"1つの願い"と、"1つの試練"をお授けいたそう。」
ネズミ声がそう言って、チューチューッと本当のネズミみたいな鳴き声を出す。
その直後、響き渡っていた不気味な歌声が、ピタリと途切れた。
『……?』
霧が一瞬静かになる。風が止まり、波音が遠ざかる。
「今よ、やっちゃって!!」
歌声が聞こえなくなった途端、チャンスだと言わんばかりに女の子が大声を上げる。
その掛け声と共に、風がビュウビュウと激しく切り裂く音、ザバザバと波がかかる音、ビカビカと光が強くなり、バキバキと地面が割れる音が大きくなる。
視界もガッタンガッタンと激しく揺れる。
体が固定されているのに、揺れが内臓を揺さぶり、吐き気が込み上げる。
霧が激しく渦巻き、視界が白と黒に明滅する。
視界が高くなった一瞬、白い髪に紫色の薔薇がいっぱい飾られた子供が喉を押さえながら宙で仰け反っているのが映った。
白い髪が荒れ狂う風に激しく乱れ、紫の薔薇の花弁が1枚、また1枚と散り始める。
飾られた薔薇の柔らかな花弁が、ゆっくりと、まるで涙のように落ちていく。
子供の喉から、かすかな、苦しげな空気が漏れる音がした。
そして、その子供の体が、透明な硝子の球体に包まれた紫色の大きな薔薇に変化した。
球体は完璧な透明度を持ちながら、内部に淡い紫色の光を閉じ込めていた。
無数の花弁が幾重にも折り重なり、中心に向かって渦を巻くように密集している。
花弁の縁は微かに震え、光を屈折させて虹色の輝きを放つ。
硝子の表面は鏡のように滑らかで、周囲の霧や光の明滅を歪めて映し込み、まるで別の世界を内包しているかのようだった。
大きな紫の薔薇は生きているようにゆっくりと脈動し、花弁の隙間から淡い光が漏れ、球体全体を幻想的に照らしている。
ピキピキ…
球体に亀裂が走った。
細かな亀裂が、硝子の表面を蜘蛛の巣のように走る。
最初は1本の髪のような細い線だったものが、次第に枝分かれし、網の目を広げていく。
球体の中で紫の薔薇が苦しむように花弁を震わせ、光が不規則に明滅する。
パリンッ!
甲高い破裂音と共に、硝子の球体が粉々に砕け散った。
無数の硝子の欠片が、霧の中でダイヤモンドのように煌めきながら飛び散る。
中心にいた巨大な紫薔薇も瞬時に崩壊し、無数の花弁が花吹雪のように舞い上がった。
紫色の柔らかな花弁はゆっくりと回転しながら落ちていき、地面に触れるとフワッと四方八方へ飛び、視界から消えて行く。
残された硝子の破片は、霧の白の中に散らばり、淡い紫の残光を宿したまま、ゆっくりと冷えていく。




