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セラバモ 〜セバリゴノ・ドミノ〜  作者: ロソセ
ワームホールの先星

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ワームホールの先星⑯

ナメクジとヒルの2匹は椅子からゆっくり体を滑らせ、ドアの方へ向かう。

ヌルリと床を擦る微かな粘液の音だけが、静かな部屋に響く。


「それじゃ。お邪魔しました〜。」


奇色君がいつもの軽い調子を取り戻そうとする。

でもその声は、さっきより少しだけ掠れ、疲れが滲んでいた。


蝋奈ちゃんもゆっくり体を動かし、背を向ける。


部屋の外は真っ暗で、風の音が窓を叩いている。


「まっ、待って!」


私は慌てて立ち上がり、2匹に声を掛ける。

ついつい大きな声を出してしまって、ヒンヤリしたリビング中に響き渡る。


奇色君が体をくねらせて、楽しそうに振り返る。


「何なにぃ?どうしたのぉ?」


「えっと、そのぉ…。」


本当はまだ怖いし、嫌だけど…。


こんな夜中に追い出すのも可哀想だと思った。


「今日はもう遅いし、布団も何も無いけど……」


複雑な感情が胸の中で渦巻き、言葉が上手く出ない。


「もしかして、泊まって良いの?」


蝋奈ちゃんが首を傾げる。

私の気のせいかもしれないけれど、淡々とした声が少しだけ弾んだように聞こえた。


「う、うん……。」


私は反射的に頷いた。

胸の奥で、嫌悪と同情と戸惑いが激しく混じり合う。


だって彼等は私とモモカに意地悪したし、私の家に無理矢理上がって来たし、私に意地悪した訳を話してくれたし、私に意地悪した事を謝ってくれたし…。


それに……


いつの間にか、テーブルの上で倒れていたコップが元の位置に戻っていて、溢れていたお茶も綺麗に消えていた。


視線を蝋奈ちゃんに移す。


蝋奈ちゃんが黄色くなったヒダをサッと後ろに隠して、少し考える素振りを見せる。


「そうね、4人で1つのベッドで寝るのも悪くな…」


「ちょっと蝋奈ちゃん!駄目だよ!」


急に奇色君が慌てた声を上げて、蝋奈ちゃんの首元を掴むと引きずるように玄関側のドアへ向かう。


「無理しなくて良いよ。僕達、門ぐらい飛び越えられるから、やっぱり学校に帰るよ。」


えっ?

門が閉まってるから帰れないの、嘘だったのね!


心の中で苛立ちが湧くけど、口には出さない。


奇色君がドアの前で、体をくねらせながら吸盤を細める。


「取り敢えず、怖い目に遭いたくなかったら歌うの禁止。」


蝋奈ちゃんが奇色君に引っ張られながら大きな目を細めて静かに頷く。


「何かあったら出来る限りの事はするから……それじゃ。」


奇色君と蝋奈ちゃんは小さく手を振って退室した。


ギィ…


パタンッ。


ドアがゆっくり閉まる重い音が、部屋に響き渡る。


暫くして、


ガチャン。


遠くの方、玄関の扉が閉まる音がした。


再び戻る静けさ。


ようやく帰った…。


部屋に残された私は、緊張の糸が切れて、ゆっくり椅子に座り直す。


奇色君と蝋奈ちゃんがドアの向こうに消え、閉まった音が静かに響いた後、部屋に残された乳白色の光と、風船の影だけだった。


胸の奥で、残った記憶の欠片が、かすかに、しかし確実に疼き続けている。


床の方から、モモカの小さな寝息が、ようやく穏やかに聞こえてきた。


私は生乾きの三つ編みを軽く握り締め、静かに、深く息を吐いた。


まだ心がザワザワするし、ムカムカする。

薄れかけていく許せない気持ちと、ほんの少し芽生えた理解が、胸の中でせめぎ合い続けている。


でも、さっきよりは、少しだけ息がし易くなったような気がした。


ポンッ、とまたひとつ風船が弾ける音がして、破片が床に落ちる。


その小さな音を合図に、全身の力が抜けて、椅子に座る事も辛くなって床へ滑り落ち、その場にへたり込んだ。


体が震え始めて、止まらない。冷たい。

びしょ濡れの服が肌に張り付いて、冷えが骨まで染みてくる。肩が内側に縮こまり、背中が丸くなる。


それ以上に、心の中が急にぽっかり空いて、寂しさが込み上げてきた。


誰もいない。


モモカはまだ猫用のベッドで動かないし、不思議な記憶も、壊された欠片も、全部遠くに感じる。


今、ここにいる人間は私だけ。

胸が締め付けられて、息が苦しい。

喉の奥が熱くなり、涙が滲み出そうになる。


でも、涙が出ない。


疲れた。今日は、もう何もしたくない。


「……今日は、お腹いっぱい食べたし、疲れたし、早く寝よう。」


ポツリと呟く。

自分の声が、部屋に小さく響いて、すぐに消える。


お腹は確かに満たされたのに――さっき思い出したあのミミズの感触が、舌の裏にまだ残っている気がして、ムカムカする。

ヌメヌメグネグネした感触通りの味、土の匂い、喉を通る時のドロッとする感触。


でも、もう考えるのを止めた。

考えると、もっと寒くなる。

もっと寂しくなる。


頭を振って、記憶を追い払うように、ゆっくり立ち上がった。


モモカのいる猫用ベッドへ近づく。

小さな体はまだぐったりしているけど、胸が弱々しく上下している。


そっと両手で抱き上げると、濡れた毛が私の腕にべっとり張り付く。

重たくて、でも温かくて、ホッとする。


モモカの小さな頭を、頰に寄せてみる。

かすかな息遣いが、肌に触れる。


生きてる。


それだけで、胸の空洞が少し埋まる気がした。

指先で、毛並みを優しく撫でる。

まだ少し湿っているけど、温かい。

モモカの体温が、ゆっくりと私の手に伝わってくる。


私はモモカを抱き上げると、自分の部屋へ移動する。


廊下の蛍光灯を消すと、家の中が一気に暗くなった。

ただ、月の光が、窓から薄く差し込んで、床のシーツを青白く染める。

部屋の隅に積まれた古い本の山、壁に貼られた剥がれかけたポスター、埃の積もった棚。

全てが、静かに私を見ている。


私の、人間用のベッドの上にモモカをそっと置いた。


私はまだ濡れている制服を脱ぎ捨てた。

濡れた服は床に放り投げて、タオルで体を拭く。

冷たい肌が、ようやく少し温かくなる。


ピンク色の花のワンピースみたいなフリフリで可愛いネグリジェに着替えて、ベッドに潜り込む。


シーツはふわふわしてるけど寒さでヒンヤリして、最初は体が縮こまるけど、すぐに自分の体温で温まってきた。


布団の匂い――少し埃っぽくて、でも懐かしい匂いが、鼻をくすぐる。


あの2匹、無事に戻れたのかなぁ…?


さっき学校へ帰ったナメクジとヒルを思い出す。


いきなり襲って来てモモカに意地悪した時は許せなかったけど、話せばちゃんと通じたし、何だかんだ謝ってくれたし、心配してくれた。


気持ち悪い生き物じゃなかったらなぁ…。


そういえば、私は何を思い出したのだろう?

ミミズを食べちゃった事以外に…。


思い出そうにも、何も思い浮かばない。

心の中にポッカリと穴が空いた気分。


あるとすれば、学校での思い出。

学校の皆から睨まれ、悪口を言われ、暴力を振るわれ、無視をされ、先生に相談してもはぐらかされ…。


涙が、ポトリと枕に落ちた。


でも、今は泣きたくない。

ただ、温もりに包まれていたい。


モモカを抱き寄せる。

小さな体を胸に抱き締めて、毛並みを指でそっと撫でる。

モモカの小さな鼻息が、首筋にかかる。

ゴロゴロと、かすかな喉の音が聞こえてきた。


生きてる。

ここにいる。

私と一緒にいる。


モモカの体温が、胸の冷たさを溶かしていく。

寂しさが、少しずつ薄れていく。


「……モモカ、ありがとう。」


小さな声で呟く。


モモカの耳が、ピクリと動いた気がした。


実は今、もしかしたら、ここも夢の中かもしれないけど、それでも良い。


目を閉じる。

目蓋の裏で、乳白色の光がまだ残っている気がした。

視界が風船の影のように、ゆらゆら揺れる。


モモカの小さな体を抱き締めたまま、私はゆっくり息を吐いた。


寒さと寂しさが、ほんの少しだけ、遠ざかっていく。

明日のことは、明日考えよう。

今は、ただ眠りたい。


夜の家は、静かだった。

モモカの小さな息遣いが、私の胸に響く。


それが、今日の最後の温もりだった。

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