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セラバモ 〜セバリゴノ・ドミノ〜  作者: ロソセ
ワームホールの先星

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89/92

ワームホールの先星⑮

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



記憶の欠片は、そこまでで唐突に途切れた。


蝋奈の冷たい触手が、額からゆっくりと離れる。

ネッチョリとした冷たさがまだ皮膚に残り、まるで薄皮が剥がれた後のような不快感が残った。


私はゆっくりと目を開けた。


部屋の乳白色の光が、再びぼんやりと視界に戻ってきた。

風船の影が壁でゆらゆらと揺れ、まるで私の混乱を嘲笑うように形を歪めている。


胸の奥が、冷たく、重く、鉛のように沈んで疼いていた。

息をする度、その重さが肺を圧迫する。

吐き気が喉の奥を這い上がり、胃がギュッと捻れる感覚。


濡れた制服が肌に冷たく張り付き、雨の冷えがまだ骨の髄まで染み込んでいる気がした。


「どう? 何か思い出せた?」


蝋奈が静かに尋ねる。

大きな目がゆっくり瞬き、白い体が微かに震える。


思い出せた。


でも…


「私、ミミズ食べてたの!?」


溜め込んでいた声が、冷たい部屋に鋭く、甲高く響いた。

思い出した瞬間、胸の奥がムカムカと激しく波打ち、強烈な吐き気が込み上げる。


ヌメヌメとした冷たい感触、土と生臭さが混じった苦い味、喉をねっとりと通り抜けるドロドロした粘液の感触……全てが鮮やかに、容赦なく蘇ってきた。


指先が震え、膝の上がガクガクと痙攣する。


「嫌だ……あんなの、絶対に思い出したくなかった……!」


心の中だけで叫ぶつもりだったけど、声は勝手に出てしまう。


大声を出した瞬間、2匹はビクッと体を震わせた。

奇色の黒い表面が一瞬硬直し、蝋奈の大きな目がギョロリと大きく広がる。


奇色がゆっくり体をくねらせ、吸盤をピチャリと鳴らしながら尋ねる。


「ミミズって……、あのさぁ、他に何か思い出せない?」


その声は私を心配する声では無くて、期待外れとかガッカリしたとか、そういう困惑したような声だった。


「うぅん……?」


私は首を傾げ、記憶の糸を必死にたぐり寄せる。


その記憶の糸は白かったのに、次第に紅く、ドス黒くなり――


嫌な予感がした。


それでも、頑張って思い出そうとした次の瞬間――


怪我をしていないのに血の臭いが鼻の奥を突き、別の記憶が津波のように押し寄せた。


「……ンヒッ!?」


記憶の底から現れたのは、まーちゃんが首を切られ、血を撒き散らしながら黒い影に食べられ、何度も何度も殴られて動かなくなるまでの、残酷な場面。


生温かい血の鉄臭、骨の砕ける嫌な音、苦痛に歪んだ叫び声、冷たい床に広がる赤黒い染み……


すべてが一気に胸に突き刺さり、息が止まる。

胸が締め付けられ、肋骨が軋むような痛み。

心臓が早鐘のように鳴り、視界がグラグラと揺れる。

恐怖と嫌悪と罪悪感が混じり合い、頭の中で渦を巻く。


「何コレッ!?嫌ぁあッ!!」


泣き叫ぶ声が、自分の喉から飛び出した。

熱い涙が溢れ、頰を伝い、顎からポタポタと落ちる。

体が激しく震え、テーブルに突っ伏しそうになる。


「嫌だ……こんな記憶、消して!全部消して!!」


胸の奥が痛くて、苦しくて、息が詰まる。

自分が自分でなくなっていくような、制御不能の恐怖が全身を支配する。

頭の中が記憶の洪水でグチャグチャに掻き回され、理性が溶け、ただ泣き叫ぶ事しか出来なくなる。


泣き叫ぶ私に驚いた奇色が、体をくねらせて近付く。


「何?ちょっと良いかな?」


低く落ち着いた声で、私の額に触手を伸ばそうとする。黒い触手がゆっくり近づき、冷たい気配が肌を這う。


「止めて!!!」


私は咄嗟に奇色の触手を払い除けた。


カタンッ!


手が当たった拍子に麦茶のコップが倒れ、中身がテーブルに広がる。

茶色の液体が木目に染み込み、粘液の残り香と混じって吐き気を誘う臭いを放つ。


涙で頰が濡れ、体が熱く震える。


触らないで!

近付かないで!

見ないで!


怖い!!


記憶の洪水が頭を掻き回し、吐き気が喉の奥までせり上がってくる。


奇色は体を少し縮め、


「大丈夫だから、落ち着いて……!」


と言いながら、無理矢理私の額に両方の触手を当てる。


冷たい感触が再び広がり、体がビクリと大きく震える。


「やめて……もう、触らないで……ッ!」


という言葉が、喉の奥でくぐもって消える。


抵抗しようとするが、力がみるみる抜けていく。


「…あれ?」


ゆっくり目を開ける。


何が起こったの?


私ってば、何で泣いているんだろう?


涙の跡が頰に残っているのに、心の中が急に、恐ろしいほど静かになる。

記憶の洪水が、まるで引き潮のように引いていく。


胸の激しい痛みとざわめきが、ぼんやりと遠ざかり、代わりに虚無のような空白が広がる。


奇色が体をくねらせ、額から手を離す。

黒い表面を上下に揺らし、波打っている。


「隠薔薇の能力で破壊された記憶と、復元した記憶を一旦僕が預かっておいたよ。」


そう言うと、急に頭を抑え、巨大な体をプルプルと震わせる。


「でも量が多過ぎて、一度に全部は無理……。君、どんだけ沢山の記憶を破壊されたんだろうね。」


声に、明らかな疲労と苛立ちが滲んでいる。


蝋奈が小さく屈む奇色の背中を優しく触手で擦りながら、静かに口を開く。


「そんなに沢山あるのなら、奇色君に記憶を抜いて貰ってから復元させるべきだったわね……、大丈夫?」


「う〜ん……何が何だか分からないけど、大丈夫。」


まだ頭の奥がぼんやりと霧がかかったままで、思考がうまく繋がらない。


でも、胸の奥にずっと居座っていた鉛のような重さが、ほんの少しだけ溶けたような気がした。


それでも、完全には消えないのか、残った棘のような疼きが、胸の奥でチクチクと刺さり続ける。

涙の跡が頰に張り付いて冷たい。


でもでも、今の私は、その原因が分からない。


理由の分からない涙が気持ち悪く、指の腹で乱暴にそれを拭い、大きく息を吐き出す。

吐いた息が白く揺れて、部屋の空気が一瞬だけ湿った。


「でもまだ半分ぐらいの記憶は君に残っているから、何か思い出したら僕達に知らせてね。」


奇色がヘラヘラと笑うような声で言う。


でもその笑顔の奥に、どこか無理をしているような影が見えた気がして、思わず目を細めた。

 

「それと……。」


奇色はひと呼吸置く。

細い瞳がまっすぐに私を捉える。


「選挙の時は焦っちゃってあんな事になっちゃったけど……、今日も驚かせちゃってごめんね。」


「え?」


思わず変な声が出た。喉の奥から出た、間の抜けた、情けない音。


さっきまで軽薄に笑っていた態度が、急に剥がれ落ちたみたいに素直で、真剣で、どこか痛みを帯びた光だけが残る。


そんな人を見るのは初めてだった。

今まで意地悪してきた人は沢山いたけど、こんな風に素直に謝られたのは、本当に初めてかもしれない。


急に胸の奥がズキズキと痛む。


許したくない。

許せない。


でも、許してしまいそうな自分が、急に嫌になる。

この複雑な感情が、胸の中で渦を巻き、息苦しさを増す。


隣に座っていた蝋奈も、私に向けて小さく頭を下げる。


「私も、いきなりモモカちゃんを気絶させてしまって、ごめんなさいね。」


白い体が少し縮こまり、まるで自分がそこにいること自体が罪であるかのように肩を窄めていく。

大きな瞳は床に落ちた埃でも見つめるように伏せられ、長い睫毛が微かに震えていた。


「そんな……」


今更になって謝られても、正直困る。


心の底から、許せない。

脅され、モモカに危害を与えられ、家に入って来られ、勝手に記憶を弄ばれ、意識を操られたような気分にさせられたこと――どれだけ怖かったか。


どれだけ自分が自分でなくなっていくような、恐怖と無力感に苛まれたか。

その記憶が、まだ胸の奥で熱く疼いている。


だからこそ、簡単に「いいよ」とは言えない。

簡単に許したら、自分が受けた痛みや恐怖が、薄っぺらいものになってしまいそうで、それもまた怖かった。


それでも。


やり方は間違っていたけれど、彼等には彼等なりの、切実で必死な理由があった。

この2匹が、隠薔薇先生をどれだけ大切に思っていて、どれだけ必死になって探しているのか――その想いの強さだけは、確かに伝わってくる。


それが、許せない気持ちとせめぎ合い、胸を更に複雑にさせる。


迷った末、必死にズキズキを必死に押さえ付ける。


「隠薔薇先生、見つかると良いね。」


今素直に伝えたい言葉を静かに呟くと、二匹は小さく、揃って頷いた。


奇色は少しだけ体を下げ、蝋奈は瞳をそっと閉じる。


どちらも言葉は無い。

けれど確かに"ありがとう"と言っているように見えた。


その瞬間、胸の奥の棘が、少しだけ柔らかくなった気がした。


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