ワームホールの先星⑬
「待って、奇色君、…この子、本当に嘘吐いていない気がする。」
蝋奈が静かに割り込む。
白い体が微かに震え、大きな目が私を観察する。
「少し様子が変だから、代わって。」
「…分かったよ。」
奇色は小さく溜め息を吐き、ゆっくりと体を座らせる。
目の前に迫ってきた圧が消え、内心ホッとした。
蝋奈が私の方を向く。
大きな目が、ゆっくりと瞬く。
「貴女、今期は転生していないのに思い出せないの?」
「転生?」
転生って、死んで生まれ変わる事だよね?
私、死んだ覚えがないけど……。
そもそも、"今期は"ってどういう事?
色々訊こうとする前に、蝋奈は話を続ける。
「仮に貴女が他人の能力を再現出来るとしても、それはシステム上、実際に会うか能力を使われるかでもしないと…」
「ちょっと待って、私が、他人の能力をコピーするって?」
今度は私が身を乗り出していた。
他人の能力を再現する?
何かしら能力を持っているかもしれないとは思っていたけれど、私、そんな能力を持っている可能性があるの?
そもそも、"システム"って?
多分、発動条件みたいな事だろうけど、まるでゲームみたいな言い方をするなんて変なの。
「さっき奇色君が言った通り、貴女の歌は隠薔薇様の能力"破壊の旋律"である事には間違い無いの。」
「でも、私が?どうやって?」
もしも、本当に私がその能力を持っているとして、その能力を使うのに条件があるのだとしたら、知っておきたい。
そんな物騒な能力を使う必要があるのか分からないけれど…。
すると、蝋奈は小さく溜め息を吐いた。
「何かおかしいと思ったら…、貴女、自分の能力すら分からない、覚えてないみたいね。」
「まさか隠薔薇の能力で記憶を壊された!?」
暫く黙っていた奇色の声が、部屋の静けさを切り裂くように低く響いた。
黒い体がテーブル越しに少し前に傾き、吸盤がピチャリと湿った音を立てる。
その音が、耳の奥で反響して、ゾワゾワと背筋を這い上がる。
私は息を詰めて、首を小さく横に振った。
「何の事?」
さっぱり分からない。
頭の中が霧のようにぼんやりして、言葉が上手く出てこない。それでも胸の奥で、何かがざわめく。
それは不安なのか、恐怖なのか。
「私、記憶を消されたの?」
声が上擦り、喉の奥で掠れる。
奇色がゆっくり頷く。
黒い表面が波打ち、蛍光灯の光を吸い込むように辺りが暗くなる。
「正確には"破壊"だね。」
「記憶が消えるのと、破壊されるって、違うの?」
同じ事のように聞こえるけど……。
奇色が体をくねらせて続ける。
声に、どこか楽しげな響きが混じる。
「転生したら記憶の一部が消えちゃうけど、隠薔薇の能力だと壊れているだけで残ってはいるよ。」
消えるなら、もうそこにない。
壊れるなら、残っている?
頭が混乱して、言葉が喉に引っかかる。
乳白色の光が、部屋を優しく照らすのに、心の中はどんどん暗くなる。
胸の奥が冷たくなる。
まるで氷の塊が沈むように、重く、冷たいものが広がっていく。
冷えた指先の感覚が遠くなる。
膝の上で握った手が、じんわりと痺れてくる。
壊れた記憶……。
それがどこかに、私が知らない記憶が欠片となって眠っているなんて、想像しただけで息苦しい。
蝋奈がスッと静かに立ち上がる。
白い体が微かに震え、表面の粘液が部屋の乳白色の光を乱反射して、まるで薄い氷の膜が張ったように冷たく輝く。
大きな目がゆっくり瞬き、その黒い瞳孔が一瞬だけ、私の顔を映し込んで離さない。
「もしも隠薔薇の能力で破壊されたのなら、確認は出来る。」
破壊されたのなら、確認は出来る?
どういう事?
奇色は理解出来ているのか嫌そうに体を縮め、黒い表面を波打たせて口を尖らせるような形に歪める。
吸盤がテーブルにピチャリと吸い付く音が、静かな部屋に不快に響く。
「蝋奈ちゃん、能力使うの?だからって選挙は嫌だよ。」
また”選挙”って言葉が出て来た。夢の中の記憶が、急に現実のもののように胸を突く。
カラオケ大会だと思っていたけれど、今からカラオケ大会っていう感じじゃなさそう。
何なんだろう。
心臓がドクドクと速くなり、耳の奥で自分の鼓動がうるさく反響する。
喉がカラカラに乾き、息を吸うたびに肺が縮こまるような感覚がする。
蝋奈は自分の指――触手のようなものをポキポキと鳴らしながら、何か準備を始めようとする。
白い表面が微かに光を帯び、部屋の乳白色の光に反射して、まるで氷のように冷たく輝く。
「選挙の時よりは威力は落ちるけど、試すぐらいなら…。」
「あのぅ…、今更だけど、選挙ってカラオケ大会の事だよね?」
私は慌てて口を挟む。
声が少し上擦り、喉が乾く。
膝の上で握った拳が、爪が掌に食い込むほど強く締まる。
「は?カラオケ?そんな訳ないじゃん。」
奇色が即座に鼻で笑うような音を立てて体をくねらせる。
え?
カラオケ大会じゃないんだ?
心臓が一瞬止まったように感じる。
夢の中の記憶が、急に現実味を帯びて、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
あの歌、あの風、あの水……。
全てが、繋がり始めている気がして、怖い。
「私の能力、隠薔薇の能力で破壊されたモノを復元する事。」
色々考えている私を無視して蝋奈が淡々と説明する。
声に感情がほとんどなく、ただ事実を並べるような平坦な響き。
大きな目が私をじっと見据え、瞬きすらしない。
「かなり限定的な能力だね。」
言葉が自然と口から出た。
自分でも驚くほど冷静に聞こえるけど、内心は嵐のようにざわついている。
指先が冷たく痺れ、膝の上が震えを抑えきれない。
「まぁ、不気味子蝋奈ちゃんの能力は1つだけじゃないからねぇ〜、僕もだけど。」
奇色がからかうように体をくねらせ、黒い表面を波打たせて笑う。
「奇色君、黙って。」
蝋奈の声が鋭く、部屋の空気が一瞬張り詰める。
風船がまたひとつ、床でポンッと小さく弾ける音が響く。
破片が乳白色の光に煌めき、埃と混じって舞う。
その破裂音が、まるで心臓の鼓動を止めたように静寂を深くする。
蝋奈が私に視線を戻し、ゆっくりと手を伸ばす。
白い触手のようなものが、私の額に近づく。
まだ触れていないのに、既に冷たい空気が肌を撫で、鳥肌が立つ。
部屋全体の温度が急に下がった気がして、吐く息が白く霞む。
触手の表面が微かに脈打っているのが見えて、胃が縮こまる。
「隠薔薇の能力で破壊された記憶を戻すだけだから…。」
私は両目を固く閉じる。
目蓋の裏で、乳白色の光がぼんやりと揺らめく。
額に近づく冷たい感触が、ジワジワと広がっていく。
指先が震え、膝の上で握った手が汗で湿る。
「わかった…。」
息を止めて、待つ。
怖い。
でも、記憶が無いまま過ごすのはもっと怖い。
胸の奥で、何かがざわめき、疼き始める。
私が消された――壊された記憶って、何だろう?
それは痛みなのか、懐かしさなのか、それとも……恐れなのか。
暗闇の向こうに、ぼんやりとした光が浮かび上がる気がした。
部屋の静けさが深くなり、風船の影が壁でゆっくり揺れる音すら聞こえなくなる。
額に触れる冷たい感触が、ゆっくりと広がっていく。
これから、何が見えるんだろう……。
心臓の音が、耳元で大きく響く。
息を、そっと吐いた。
蝋奈の冷たい触手に力が込められた瞬間――
目蓋の裏の視界がグニャリと歪んだ。
乳白色の光が溶けるように薄れ、部屋の風船の影が遠ざかる。
代わりにモヤモヤとした霧が浮かび上がってきた。
それは、壊された筈の記憶の欠片。
胸の奥でずっとざわめいていたものが、ゆっくりと、ゆっくりと形を取り始める。




