ワームホールの先星⑫
乳白色の光が部屋を優しく照らし続けているのに、何故か影は濃く感じる。
風船の影が壁にゆらゆらと揺れ、まるでワラワラと嘲笑うようにゆっくりと形を変える。
麦茶のコップに浮かんだ小さな気泡は、静かに消えていく。
部屋の空気は重く淀み、埃とゴムの匂いに、湿った土と粘液の臭いが混じり始めていた。
息を吸う度、喉の奥がざわつく。
濡れた茶色の三つ編みから、水滴がポタリ、ポタリと落ち、テーブルの木目に暗い染みを作っていく。
制服の肩も袖も、肌に張り付いて冷たい。
さっき空から降ってきたあの異常な雨…、雨って呼んで良いのか分かんないけど、あの水のせいだ。
妖精が"家に避難して"と言って去った直後、私に襲い掛かって来たヒルとナメクジが"入れてくれたら襲った理由を教える"と迫ってきた。
能力を使われて断れなかったのもあるけれど、あの瞬間、恐怖よりも"理由を知りたい"という探究心が勝ってしまって、私は仕方なくドアを開けて中に入れてしまった。
目の前に座る2匹は、巨大すぎてテーブルまでもが軋んでいる。
黒いヒルは体をくねらせながらも吸盤をピチャリと音を立てて私をじっと見つめ、白いナメクジは大きな目をギョロリと動かさず、黙って私を観察している。
床には、さっきまで浮かんでいた風船が何個か落ちていて、隅っこでモモカの小さな体がぐったりと横たわっている。
胸はまだ微かに上下しているが、目を覚ます気配はない。
あのナメクジの一撃で屋根より高く投げ飛ばされたモモカ……思い出すだけで胸が締め付けられる。
学校では色んな人達からイジメられ酷い事をされたけれど、誰も理由を教えてくれず、"ウザい""黙れ""消えろ"しか言ってくれなかった。
目の前に座っている許すべきじゃない相手は、黙って私をジッと見つめたまま動かない。
彼等は私とモモカに酷い事をしたけれど、酷い言葉はかけてこなかったし、こうやって話し合いの機会をくれた。
学校でイジメて来た人達よりは話が出来るかもしれない。
一体、何を言うのだろう。
何か探し物をしているみたいだったけど…。
長い沈黙。
私に取引を持ち出した2匹は、明らかに私の言葉を待っている。
え、コレって、私から言わなくちゃいけないの?
え、嫌なんだけど…。
確かに質問に答えてあげるって言われたけど…。
でも、何で私から?
1回チラッと床に落ちている風船に目を向けて、再び2匹の方に視線を戻す。
2匹はピクリとも動かない。
んもぅ、何で向こうから話しかけてくれないのよ!
早く話を聞き出して、早く帰って貰って、早くお風呂に入りたい。
このままだと風邪を引いちゃう。
濡れた服が体温を奪い、指先がじんわりと冷えて痺れてくる。
不安や恐怖より、焦りと苛立ちが胸の奥で渦巻いている。
痺れを切らした私は、深く息を吸い、震える声を無理矢理押し出した。
「で、貴方達は生徒って言うけど、誰なの?」
するとヒルが体をくねらせ、黒い表面を波打たせる。
吸盤がピチャリと音を立て、ツンとした粘液の匂いが一瞬強く漂う。
「同じクラスメイトの葉瑠蛇奇色だよ、ミステリアス系美少年だけど、覚えてないかな?」
ミステリアス系美少年?
このヌメヌメした巨大なヒルに、そんな言葉が似合うはずがない。
思わず眉を寄せていると、ナメクジがゆっくり首を傾げて返す。
「どこがミステリアスで美少年よ…。」
その言葉に、私も思わず小さく頷いた。
そもそも、ヒルに美少年も不細工も存在するの?こんな姿でクラスメイトだなんて、信じられない。
胸の奥で違和感が膨らむ。
「私は蝋奈。羽流雫蝋奈。」
ナメクジは大きな目をギョロリと動かし、淡々と名乗る。
白い体が微かに震え、粘液がテーブルにぽたりと落ちて小さな水溜まりを作る。
「あれ、二人共”バルダ”?ひょっとして、兄妹?」
思わず口に出すと、
「「違う!!!」」
2匹が同時に叫んだ。
鋭い否定が部屋に響き、風船のひとつがポンッと小さく弾ける音が重なる。
空気が一瞬凍り付き、埃の粒子が光の筋に舞い落ちる。
「ご、ごめん…。」
私は慌てて手を振って謝った。
そうだよね。
ナメクジとヒルって、似てるようで全然違うもんね。
体型も質感も、声のトーンも、粘液の匂いすら違う。
気持ち悪い事には変わらないから、名前が一緒だなんでどうでも良い事だもの。
どうでも良い事だし、これ以上突っ込むと面倒臭い事になりそうだから、本題に入らなくちゃ。
「私に用があるって何?」
わざわざ能力を使って、モモカにまで意地悪して、そこまでやる必要がある程の事なの?
殴られて高く飛び上がって地面に叩き付けられたモモカの姿が何度も頭を掠め、胸の奥で不安が膨らむ。
膝の上で握った手が、震えを抑えきれなくなる。
奇色が体を少し前に傾け、黒い表面が波打ちながら答える。
「僕達はね、隠薔薇を探しているんだ。」
「インバラって、隠薔薇先生の事?」
学校で行方不明の先生がいる話を思い出す。
授業中に突然姿を消したという噂。
でも皆、その先生を詳しく知らない、都市伝説みたいな存在。
何人もの生徒が行方不明になっている中、今になってその名前を口にするだけで、背筋がゾクリとする。
蝋奈が静かに頷く。
大きな目が、ゆっくり瞬く。
「そう、あの御方を探す為に貴女に近寄ったのよ。」
「どうして?」
「どうしてって…?」
蝋奈の大きな目が、私をジッと見つめる。
私は咄嗟に首を振る。
濡れた三つ編みからまた水滴が落ち、テーブルの染みが広がる。
冷たい水が首筋を伝い、背中を震わせる。
「私、隠薔薇先生と会った事すらないのに?」
隠薔薇先生がどんな人なのか、どんな見た目なのか、どんな声なのか、性別すら知らないのに?
全くの無関係なのに?
胸の奥で疑問が膨らみ、息が浅くなる。
「君、本当に会ってないの?」
奇色が身を乗り出してきた。
声が低く、耳元で響くように感じる。
さっきまでのヘラヘラした様子とは一変して、黒い体がゆっくりと波打ち、ジットリと圧をかけて脅しつける。
吸盤がグジュグジュと音を立て、粘液の匂いが鼻を突く。
テーブル越しなのに顔が近くて、体が自然と後ずさりそうになる。
部屋の空気が重くなり、風船の影が壁で揺らめく。
「君が歌った時、隠薔薇の能力”破壊の旋律”が混ざっていたんだよ?」
「破壊の…、旋律?」
夢の中では歌ったら不思議な風が吹くと思っていた。
だけど現実では、妖精がやって来て"歌わないで"と言われて、口論の末、突然、空から水が流れて来て……。
もしかして、あれが破壊の旋律?
あんなのが、破壊の旋律って言うの?
胸がざわつき、喉が乾く。
「何の事だか、さっぱり…。」
それしか言えなかった。
だって私自身が分からない事だらけだから。
記憶の端に、ぼんやりとした歌の感触が残っているけど、何も掴めない。
指先が膝の上で震え、冷えた体が更に冷たくなる。
「君ぃ、嘘吐いてない?」
奇色は声を低くして詰め寄る。
黒い体がテーブル越しに更に近づき、粘液の匂いが濃くなる。
怖い。
ふと、今更になってそんな単純な気持ちが現れて、体が自然と後ずさりそうになる。
そうだった。
あの妖精が現れてから少し大人しくなっていたけど、コイツ等、その気になれば首を切り落とすって平気な事を言っていた。
実際にモモカに意地悪したし。
今度は私に…?
少しでも話が出来るかもしれない、と期待して家に入れなければ良かった。




