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空の引き出し

 アジトの扉を閉めたシモンは、その異常な静けさに微かに眉をひそめた。


 人の気配がない。


 (逃げたか……何があった?)


 それ自体は構わない。

 持参金の受領は済ませ、アーク商会への資金移動も手配した。もともと、あとは合流して逃げるだけだった。


 しかしーー

 シモンの腹の底に冷たいものが走る。


 ピエトがいない。

 それだけならいい。問題は、ピエトが管理している「裏帳簿」だ。


 偽名義、逃走経路、賄賂の流れ、協力先。

 あれは組織の“神経”そのものだった。


 『手足』が散ったところで替わりを集めればいいが、帳簿を奪われれば『仕事』そのものが死ぬ。


 (必ず回収しなければ——!)


 シモンは揺らがぬ顔の裏側で焦燥を走らせ、奥の事務室へと歩を速めた。

 

---


 (急がなきゃ……!)


 シモンが戻ったことを悟った瞬間、テオもまた音を殺して事務室を目指していた。


 契約の核となる呪術媒体。

 あれをシモンより先に確保し、無効化しなければならない。

 お嬢さまの魂が完全に縛られてしまう前に——!


 薄暗い廊下を駆けながら、テオは息を呑んだ。

 足音が向かいの角から近づいてくる。


 (速い!)


 テオは、とっさに積み上げられた木箱の陰に身を潜めた。

 シモンの足音が、迷いなく目当ての事務室へ入っていく。


 先を越される——! 


 もう、隠れ続けるのは無理だ。

 意を決して物陰から飛び出し、事務室へ駆け込んだ。


 「待て!」


 部屋では、すでにシモンが引き出しに手を掛けていた。

 こちらをちらりと見ながら、二重底に手を掛ける。


 (ダメだ——!)


 シモンを止めようと、飛びつこうとした瞬間——。

 二重底が開けられた。


 カタッ


 その音は、やけに軽く響いた。

 引き出しは、もぬけの殻だった。


 シモンの手が止まる。

 テオもまた、それを見つめたまま動けなかった。


 「……空、だと?」


 掠れたつぶやきが届く。

 だがテオの胸中を占めたのは、全く別の焦燥だった。

 

 (媒体が消えた……! 儀式が進行したんだ。呪いの契約が、もう動き出している!)


 もう、ここで媒体を探している場合じゃない。

 手遅れになる前に、直接、呪いの核であるグレイストン伯爵を止めなければ。


 テオが踵を返そうとした、その時だった。

 シモンが、ゆっくりと顔を向けた。


 「……おまえか」


 低い声が鼓膜を打つ。感情は読めない。

 だが次の瞬間、シモンが一切の躊躇なく、一直線に踏み込んできた。


 「ひっ……!」

 テオは反射的に身を翻し、廊下へ飛び出した。

 背後で、硬い革靴が床を蹴る音がした。


 廊下を全力で逃げるが、足音は離れない。

 角を抜けても、変わらぬ間隔でついてくる。


 距離を取れたと思った次の瞬間には、もうすぐ真後ろに迫っている。


 (なんで追ってくる!?)


 儀式は、もう始まってるはずなのに——!


 疑問がよぎるが、深く考える余裕はなかった。


 曲がり角をひとつ抜けても、床を打つ無機質な音が離れない。

 だが、もう一つの角を曲がれば、勝手口へ続く直線だ。あそこを抜ければ撒ける。

 ——そう思った瞬間だった。


 後ろから伸びた腕が、テオの襟首を乱暴に掴んだ。

 「っ……!」


 喉が潰れる。抵抗する間もなく体が宙に浮いた。


 ドンッ!


 背中が壁に叩きつけられる。

 逃げ道はない。目の前には、睨みつけるシモンの顔があった。


 「誰に渡した!」


 常に泰然としていたシモンの声に、初めて剥き出しの焦燥が混じっていた。

 襟がギリギリと締め付けられる。


 (殺される……!)


 恐怖で足がすくむ。しかし――

 

 『追い詰められた時ほど、頭を止めるな』


 (……そうだ。落ち着け……まだ終わってない!)


 テオは必死にシモンを観察した。


 テオを睨みつける目……何か引っかかる。


 『誰に渡した』。さっきの言葉……。


 (……違う?)


 呪符を探してる目じゃない。

 隠し場所が空だったことより、“外へ出た”こと自体を恐れている。


 (……まさか)


 まだ、儀式は完成していない?

 だから、こいつは——


 『脅すな。相手が一番怖がってる答えを選ばせろ』


 (……はい。師匠。――「心臓貫きの秘儀」!)


 相手の、最も恐れる事実だけを突きつける。

 テオは襟首を掴まれたまま、静かな眼でシモンを見据えた。


 「……今さら回収しても、もう手遅れだ」


 シモンの瞳孔が、限界まで収縮した。

 その瞬間だけ。

 初めて、顔から色が消えた。


 ぎゅっと目を閉じ、何かを考え始めたようだ。

 そして数瞬の後――。


 シモンは、テオの襟首を乱暴に突き放した。

 「……チッ」


 血の気の引いた顔で、シモンは踵を返し、足早にアジトの裏口へと走り去っていった。



 静まり返った廊下には、テオ一人が残された。

 ズルズルと壁伝いに座り込み、テオは荒い息を吐き出す。


 (やった……、うまく切り抜けた……)


 だが、休んでいる暇はない。儀式は進み始めている。


 「急がなきゃ……グレイストン伯爵を止めないと!」


 テオはふらつく足で立ち上がり、決意を込めてアジトを飛び出した。


---


 アジトから遠く離れた、裏通りの一角。大きな鞄を抱えて走る影があった。

 小柄で細身、落ち着きなく視線を彷徨わせながら、軒下の影を這うように進んでいく——ピエトである。

 

 (そろそろ動きがあると思ってた。……うまく抜け出せたぜ。)


 数日前、内偵官をこの目で認めて以来、ピエトは張り詰めた空気のアジトで、ひたすら神経をとがらせていた。

 はじめに異変をとらえたのはブルクのようだった。

 「……外、見てくる」そう言って、廊下へ出たことを確認したピエトは、書棚に隠していた裏帳簿を鞄に詰めて、アジトを抜け出したのだった。


 (シモンも査察官も信用できねぇ。……これは切り札だ。)


 裏路地の細い小道に差し掛かったところで、ふいに声が掛かった。


  「よお。ずいぶん急いでるな」


 びくりと肩が弾む。

 しかし、その姿を認めて緊張がゆるんだ。

 酒場の顔なじみだ。

 

 「なんだ、おまえか」

 「どうした、顔色わりぃな」

 「……ちょっと立て込んでんだよ」

 「へぇ、逃げるくらいには?」


 その視線がちらりと鞄に移る。

 「大荷物だな、預かってやろうか。ほとぼり冷めたら酒場に来りゃぁいいだろ」


 頬がこわばり、鞄を握る手に力がこもる。

 その時、表の通りからあわただしい足音が響いた。


 (こんなもん、“うち”の仕組みを知らなきゃただの紙束だ)


 一瞬迷い、肩に食い込んでいた鞄を押し付け——ようとしたところで、鞄に手を突っ込み、封筒を取り出した。


 「……これは、手元に置いておかねぇとな」

 「……。ははっ! さすが旦那、抜かりないねぇ!」


 抜き出したのは、封蝋で止められた証文――アーク商会の振替受領証。

 ピエトはそれを懐へねじ込み、ようやく少しだけ息を吐いた。


 「まったく、ちったぁ信用してくれよ。まぁ、それが旦那らしいんだが」

 顔なじみの詐欺師は、そういって鞄を受け取った。


 「はは。落ち着いたら取りに行く。頼むぜ、————ダリオ。」 

 

---


 足早に逃げていくピエトの背中を見送って、役人崩れのチンケな詐欺師――ダリオは、ふう、と息を吐いた。


 「まぁ、手元に残したところで、紙屑でしかないんだが」


 (うまく網に引っかかってくれてよかった)


 ピエトの背中が見えなくなるのを見届けると、物陰に隠してあった、もう一つの鞄を引きずり出す。

 書類鞄よりさらに膨れ上がり、中身がこぼれそうなほどだ。


 テオに書かせた“呪符”――偽造振替証文で引き出した金である。

 札束の詰まった鞄は、持ち上げるたび鈍く軋んだ。


 "アーク商会の裏窓口"なんてものはない。

 ピエトが”振替受領証”なんて持って行ったところで、門前払いがオチだ。


 この金をいただいてとんずらすれば、この街の煩わしいしがらみに、後ろ足で砂をかけておさらばできる。


 「……さて、どうすっかなぁ……」


 街灯のちらつく路地裏で、けだるげに頭を掻きながら、面倒くさそうに空を仰いだ。


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