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順調に散っている。次は……

 「おおよそ準備は整った。……そろそろじゃないか?」


 廊下で息をひそめ、一味の会話に耳をそばだてていたテオは、短く息を呑んだ。


 (……まずい。儀式の決行だ!)


 この数日、すべての呪符を奪取すべく、テオはダリオと準備を進めてきた。

 一味の出入りや保管場所を探ったり、呪術媒体を書き写したり。

 好機を窺ってはいたが、常に誰かの目が光り、アジトが手薄になることはなかった。


 (ダメだ。ここで奪い取るしかない……!)


 もしもの場合に備えて、ダリオも外で待機してくれている。

 一呼吸おいて、静かに心を決める。


 『群れた相手に手を出すな。まず切り離せ』


 (「断縁の術」!)


---


 「……シモンはまだ戻ってこないのか。金は逃がしたし、あとは逃げるだけだってのに……」


 共有スペースで、バルトが苛立たしげに窓の外を覗き込んだ。


 「また引き止められてるのかしらね。……事業説明だとかで。しつこい小娘だこと」

 ノーラが爪を弄りながら答えたが、その声にいつもの余裕はない。


 ブルクはドア近くに立ったまま、無言で二人を見ていた。


 (退避の準備は進んでる。あとは散るだけだ)


 頭のなかの撤退工程は、すでに最終段階に入っている。ここまでは予定通りだったはずだ。

 だが、部屋の空気がどうしようもなく悪い。


 さっきから書類を抱えて姿を見せないピエトは明らかに怯えきっていたし、バルトは神経を尖らせている。頼みのシモンも戻らない。

 とてもじゃないが、「デカい仕事を成功させた後の空気」ではない。


 (……気味が悪い。少し様子を見るか)


 「……外、見てくる」

 ブルクは短く言い捨て、廊下へと足を踏み出した。


 事務所はとっくに閉まり、廊下には人の気配一つない。

 薄暗がりの中で静まり返っている。 


 ピエトの青ざめた顔が脳裏をよぎる。

 落ち着きのないバルトの視線。戻ってこないシモン。

 そして、ここ数日まとわりつく、嫌に湿った気配。


 まるで、見えない何かに包囲網を狭められているようだった。


 そこで、ブルクの足がピタリと止まる。

 誰もいない廊下。だが、強烈な視線を感じる。


 何かが、暗がりの中に潜んでいる。


 首筋がむず痒い。

 昔、ヘマをして衛兵に完全に包囲される直前も、ちょうどこんな感覚だった。


 (……駄目だ。ここはもう臭すぎる)


 雇い主を売るつもりはない。だが、沈みかけた船に残る義理もなかった。

 ブルクは身をひるがえし、一度も振り返ることなくアジトの裏口から姿を消した。

 

---


 「! ブルクの奴、逃げやがったのか!」

 「あら……」


 ブルクが一言もなく出ていく音を聞いて、ノーラは、小さくため息をついた。

 

 (金の移動は終わった。あとは逃げるだけ……だったのにねぇ)


 そう思いたいのに、誰も安心していない。

 ブルクは逃げ出し、バルトは何度も外を確認している。交わされる言葉は短く、互いの顔色を窺うような視線が飛び交っている。


 ノーラはなんとか場を繋ごうと口を開いた。

 「落ち着きなさいよバルト。もうじきシモンも戻るわ。大仕事の後は——」


 カタンッ


 ノーラの言葉を遮るように、廊下の奥で物音が響いた。


 「……誰だ!?」

 バルトが即座に跳ね上がり、ナイフを抜いて狂気じみた目で廊下を睨みつけた。


 その過剰な反応を見た瞬間、ノーラはすっと血の気が引くのを感じた。

 何より彼女を震え上がらせているのは、「いつもの芝居」が、もう誰にも通じなくなっていることだった。

 軽口を叩いても誰も笑わない。茶化しても空気が緩まない。


 ノーラは知っている。人間は、騙し合っている間はまだ安全だ。

 本当に危ないのは、誰も演技をしなくなった時だった。


 (ちっ、ここはもう駄目だ)


 追い詰められた詐欺師が何をするか、ノーラは嫌というほど見てきた。

 口を割る。仲間を売る。先に相手を黙らせる。

 ここはもう、逃げ遅れていい空気じゃない。


 「あらいやだ。急に冷えてきたわね。ちょっとストーブの薪を取ってくるわ」


 内心の悪態とは裏腹に、口元には愛想のいい笑みが浮かぶ。

 こんな時でも、人当たりのいい女を演じる癖だけは勝手に出てきた。


 ノーラはハンドバッグを手に取ると、足音一つ立てず、ごく自然な足取りでアジトから姿を消した。


---


 「おい……嘘だろ……?」

 誰もいなくなった共有スペースで、バルトは一人立ち尽くしていた。

 バルトの中に不安が渦巻く。


 (持参金は移した。退避先もある。アジトを畳むこと自体は妥当だ)


 この事態を納得しようと、必死に論理を組み立てる。だが、ここ数日の因果が噛み合いすぎている。

 ピエトが異常に怯え始めた時期。アジト周辺をうろついていた正体不明のガキ。

 こちらが動くたびに空気が悪化し、常に行動を読まれているような不気味な感覚。


 (そもそも……なぜ急に、資金の移動先を変えた?)

 バルトの思考が、強烈な違和感に突き当たった。


 『他の商会が見張られているからアーク商会へ移す』

 ——その時はピエトの言葉に納得したが、今振り返ると妙だ。完全に判断が後手に回っている。なぜ毎回、相手に先回りされている?

 (偶然にしては、出来すぎている……!)


 バルトの脳内がめまぐるしく働き始める。

 (内部情報が漏れているのか? ピエトが脅されて吐いた? いや、最初から俺たちは監視されていた?

 だとしたら、資金の移動先であるアーク商会すら、とっくに把握されてるんじゃないか?

 待てよ……ブルクやノーラはそれに気づいたから、俺を囮にして逃げたのか!?)


 背後で、自分たちの知らない誰かが糸を引いている——そんな感覚が、じわじわと背筋を這い上がってくる。

 どこから漏れた? 誰が敵だ? 何を信用すればいい?

 ——俺たちは最初から、逃げ場のない袋の中に追い込まれていたんじゃないのか?


 バルトの中で、疑心暗鬼が極限まで育った、その時。


 「……順調に散っている。次は……疑り深いやつの番だ」

 静まり返った廊下の暗がりから、微かなつぶやきが聴こえた。

 バルトの心臓が跳ね上がる。


 (やっぱり……俺を狙ってる!!)


 この仕事は、もう自分の理解できる範囲を超えている。これ以上付き合えば、破滅は間違いなかった。

 バルトは椅子を蹴り倒し、窓ガラスを乱暴に開け放つと、脱兎のごとく路地裏へと飛び出していった。


---


 (やった……!)


 テオは、静まり返ったアジトの廊下で、内心喝采を上げた。

 本当に、敵は勝手に散っていった。師匠の教えは正しかったのだ。


 これで残るは、契約の核を回収するのみ。

 作戦の成功への期待に、ごくりと唾を飲み込んだ、その時だった。


 カチャリ、と。

 アジトの表玄関の扉が開く音がした。

 足音が一つ、静かに廊下へ入ってくる。


 テオはハッと身構え、再び気配を殺した。肌に粟立つような感覚が全身を駆け抜ける。


 (あれ……)


 先ほど逃げていった連中とは、明らかに空気が違う。

 その気配には微塵の焦りもなく、静かに一定の歩調を刻んでいる。


 呪術契約の悪魔の代理人——シモンが戻ってきたのだ。


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