想像にまかせよう
ロゼッティ家の使用人居住棟。朝の慌ただしい空気の中、テオは今日も敵のアジトへ潜入すべく、パンを押し込んで食堂を飛び出そうとした——が。
「ちょっと、テオ」
出口のそばで他の使用人と立ち話をしていた母親が、呆れたように振り返った。
「あんた最近、どこほっつき歩いてるの。お嬢さま、もうすぐお嫁に行っちまって、お会いできなくなっちまうってのに。少しはご挨拶に行く準備でもしたらどうだい」
その言葉は、テオの背中を冷たく打ち据えた。
「——え!?」
「え?じゃないよ。お式はもう来週だよ」
とっさにこれまでの日にちを指折り数える。
調査、潜入、目の前の問題に精一杯で、残された時間の少なさが頭から抜け落ちていた。
ざっと血の気が引いていく。
(もう、時間がない……!
呪術が完成する前に、契約の核——グレイストン伯爵の企みを潰さなければ……!)
媒体は手に入れた。だが、どう使えば結界を破れる?
まだ決定打が見えていない。
「もう少しだから!」
テオは短く答え、母親の小言を背に食堂を飛び出した。
その耳には、のんきに噂話を続ける兄たちの声が届いていたが、テオにはどうでもいい話だった。
「……しかし、すげえよな。持参金、一億五千ルクだってよ」
「一億五千万、な。桁が違うわ。グレイストン伯爵のところ、台所は火の車らしいからな。持参金で一発逆転ってわけだ」
「うちとの共同事業にも、その金がドカンと流れ込むって話だぜ。旦那様もさすが太っ腹だよ……」
テオは、迫る刻限への焦燥を胸に、「陽だまりの家」——呪術師たちのアジトへと向かった。
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(もう、悠長なことはしていられない……。残りの呪符を手に入れないと……!)
テオは「陽だまりの家」の奥、事務室で息を潜めていた。
今、室内には誰もいない。
バルトとノーラはシモンに同行して不在、ピエトも先ほど書類の束を抱えて出て行ったばかりだ。
テオは足音を潜めて、ピエトの机へとにじり寄る。
テオは深呼吸をして、気合を入れるように、麦色の前髪を後ろに縛った。
集中して、ピエトの書棚の一番下の引き出しを開け、その奥へ手を伸ばす。前回の紙片が隠されていた、二重底のさらに奥の隙間。
(あるか? ……いや、もう少し奥だ)
指先が、何か硬い紙の感触に触れた。
(……あった!)
指に触れた一部を引きずり出す。
残りも引き寄せようと、躍起になったその時——。
「……そこで何をしている?」
背後から、神経質な声が響いた。
「っ!!」
心臓が刺し貫かれたように跳ねる。
そろりと振り返ると、ピエトが苛立ったように前髪を払い、鋭い薄茶の瞳でテオを睨みつけていた。
(気づかなかった……まずい、まずい、どうする……!)
瞬間、頭の中が真っ白になり、無益な問いばかりが渦巻く。
「見ない顔だな。何者だ! 答えろ、お前、そこで何を探っていた!」
ピエトの視線は、テオの顔と、書棚の隙間を激しく往復している。
(……? おれだって、ばれて、ない……?)
ふと、頭が凪いだ。
直後、テオの中を、師の教えがめまぐるしく駆け巡る。
——『顔を見るな。隠したい方を見ろ』 (奴の指先が震えている。これはただの怒りじゃない。恐怖だ。おれに見つかることを恐れている)
——『焦るな。先に崩れた方が負けだ』 (動くな。今、おれが一番落ち着いている。)
——『答えを渡すな。人間は勝手に埋める』 (何も言うな。待て。奴自身が勝手に答えを導き出すまで)
瞬きひとつせず、無表情で立つテオに、ピエトの喉仏がゴクリと上下した。
ひりついた静寂がその場を満たす。
(こいつは、今、おれ自身より……もっと別の何かを恐れている。
なら、その“本命”を匂わせれば——)
テオは静かに口を開いた。
「狙いはお前じゃない。黙っていれば、お前は見逃してやろう」
テオの言葉が室内に落ちた瞬間、ピエトの顔色からサッと血の気が引いた。
彼は後ずさり、信じられないものを見るような目でテオを見つめた。
「まさか……財務院の内偵官か……!?」
(???……ナイテイカン?)
よくわからない言葉がピエトから飛び出し、テオは虚を突かれた。
——が、面には出さず、素直に師の教えに従って、低く告げる。
「……想像にまかせよう」
ピエトは小さく息を呑み、前髪を乱暴に掻き毟った。
「わかった……俺は何も見ていない。お前も……俺のことは見逃すと言ったな」
テオはただ静かに頷いた。
ピエトは逃げるように視線を逸らすと、踵を返して慌ただしく部屋を出ていった。
残されたテオは、一人で大きな息を吐き出した。
(やった……! 奴の精神に干渉して退けたぞ! 術が通じた……!)
テオは、至高の叡智たる師匠の教えに深く感謝し、襟まで濡らす冷や汗を、袖で拭った。
---
その夜、テオは再びダリオの宿を訪れていた。
術が残っていたのか、師に「お前だれ?」などと言われたりもしたが、前髪を下すことで術が切れて事なきを得た。
術のコントロールが今後の課題かもしれない。
「というわけで、現場を見られるという失態もあったんですが、師匠の教えのおかげで、正体はバレませんでした!」
「……そんな効果ねぇけど……」
「さらに、ピエトに『ザイムインノナイテイカン』と勘違いされましたが、教え通り、想像にまかせて撃退しました!」
「……」
報告を聞いたダリオは、額を押さえて天を仰いでいた。
「お前、それ……いや……なんだってそんな無茶したんだよ。下手打ったら放り出されるだけじゃ済まねぇぞ」
何かを言いかけて、ダリオはふうっと長く息を吐き出した。
「……時間がないんです。式がもう来週に迫ってて……」
「……はぁ。深追いするなよ。生きて逃げられなきゃ全部無駄だぞ」
ダリオは、呆れたようにいうと、テオが入手した帳簿のページをパラパラとめくり、並んだ数字の羅列をじっと目で追った。
「……なるほどな。こいつの事情はだいたいわかった」
「でも、あんまり長居できなくて、呪術の媒体はごく一部しか持ち出せませんでした」
テオが悔しそうに言うと、ダリオは手帳を閉じながら首を振った。
「う~ん、これだけだと、まだ不十分だろうな」
ダリオの言葉に、テオは強く頷いた。
「やっぱり! 一部の呪符を破るだけでは、魂の解放には至らない……。
あの場にある媒体を根こそぎ浄化しなければ、呪縛は解けないということですね……!」
「あー、うん。そうそう。根こそぎな」
ダリオは、慣れてきたように生返事を返した。
「お嬢さまが嫁がれる前に、なんとしても奴らのアジトから、すべての呪符を手に入れてみせます!」
「あ、その前にやってもらいたいことがあんだけど……」
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そのころ、「陽だまりの家」奥の私室では、いつものように、夜ごとの算段が始まっていた。
「例の持参金が入れば、この慈善事業も店じまいね」
ノーラがブローチの縁を指先でなぞりながら、淡々と切り出した。
「この事業での小銭稼ぎも、そろそろ潮時だったからちょうどいいわ。
ロゼッティ家の持参金をまるごと闇組合に上納して、私たちは幹部の席をいただく。悪くない取引ね」
壁際の影に同化するように立つブルクは何も答えない。
窓の外へ鋭い視線を向け、眉間に深い皺を寄せていたバルトが、ノーラの浮かれた言葉に水を差すように口を開いた。
「……浮かれてるところ悪いけどよ、最近、おかしい。誰かに見られている」
「誰に」
「それが……特徴がねえ。どこにでもいるような……思い出そうとしても、印象がぼやける。だが、確かに視線を感じる」
「気のせいね。過敏になっているだけよ」
ノーラは軽くあしらい、それ以上取り合わなかった。
バルトも忌々しげに舌打ちをするだけで、反論はしない。
険悪な空気になりかけたところで、音もなく、部屋の扉が開いた。
静かに入ってきた男は、仕立てのいい上着を中央のソファに懸けると、定位置に座った。
「シモン、最近、お付き合いが長いわね」
「お嬢さまがうるさいらしくてな。何かと説明させられる」
内容とは裏腹に、感情の乗らない声で返答すると、机でペンを走らせる男に声を掛けた。
「ピエト。帳簿の『穴埋め』はどうなってる? 先方がしびれを切らしてる。」
低い声で名前を呼ばれた瞬間、ピエトの肩がビクンと大きく跳ねた。
「……っ、問題ない……」
ピエトは顔を引きつらせ、視界にかかる前髪を掻き上げた。
ここ数日、表に出すための帳簿の辻褄合わせが難航している。
数字が合わないのは、物資の仕入れ額を水増ししているからだけではない。
そこからさらにピエトが『いただいている』からだ。
シモンの凪いだ視線がすべてを見透かすように刺さってくる。
ピエトの指先は、ペンを強く握りしめたまま微かに震えていた。
つい先ほど、事務室で出くわした「内偵官」らしき得体の知れない少年の影。
そして今、目の前に立つシモンの視線。
二つの重圧に挟まれ、息が詰まる。
(なんだって俺ばかりこんな目に……)
自分の裏切りは棚に上げて、ピエトは不満を募らせていた。
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煤けたランプが照らす地下の酒場は、むせ返るような紫煙と安酒の匂いに満ちていた。
ここは表通りを歩けない「ご同業」たちが集まる吹き溜まりだ。
ピエトが苛立った足取りで奥の席へ向かうと、すでに入り浸っていた男たちがジョッキを片手に声をかけてきた。
「よぉ、ピエトの旦那! こっちで一緒に一杯どうだ」
声をかけてきたのは、愛想のいい裏路地上がりの博打打ちだ。席には訳あり荷の運び屋に、役人崩れのチンケな詐欺師。どいつもこいつも、セコい裏仕事で日銭を稼ぐろくでもない連中だったが、シモンの冷たい視線に比べれば、幾分マシな相手だ。
ピエトは無言で腰を下ろしてエールを呷った。
「そういや、こないだのヤマはどうだった?」
「ピエトの旦那のおかげで上手くいったよ。帳簿の穴、見事に誤魔化してくれてさ」
「な、言ったろ。旦那の腕は間違いねぇって」
「ほんとに助かった。……最近、役所が裏の金の流れを洗ってるって話も聞くからなぁ」
「あぁ、どうりで。最近、検問が多いと思った。」
その話題に、ピエトは心臓がどきりと跳ねる。
「役所……。まさか、内偵……とか」
掠れた声で尋ねるピエトに、運び屋は事も無げに顎を撫でた。
「ははっ。そういう噂も聞いたことはあるな。真偽のほどはわからんが」
(やっぱり……!)
ピエトは卓の下で拳を握りしめた。
棚の裏の「絶対に見られてはならないもの」を探り当てようとしていた、あの少年。一切の動揺を見せないあの底知れなさ。
(あいつ……! 間違いない、財務院の内偵官だ……!)
「どうした、旦那。急に顔色が悪くなったぜ?」
博打打ちが怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
「……いや。実は最近、なんだか見られているような気がしてな……。今日も、妙な奴と出くわしたんだ」
ピエトが震える声でこぼすと、博打打ちは「マジかよ」と大げさに肩をすくめた。
「俺らも気ぃつけねぇとなぁ。」
ピエトは再びジョッキを呷り、前髪を乱暴に払った。
内偵に目をつけられ、いつ慈善事業のからくりがバレるかわからない。
だが、横領を隠して逃げようにも、シモンたちに見つかればタダでは済まない。前も後ろも塞がれている。
ピエトは、視線を泳がせ、たまらず口に出した。
「なんか、いい逃げ口とかは、ないもんかね……。」
「そりゃぁ、あるもんなら使いてぇけどよ。」
「……表に出ねぇ窓口使う奴もいるらしいぜ」
「……! なんてところだ……」
---
「アーク商会の裏窓口だ」
ピエトは声を潜めた。
「あそこなら査察の手は及んでいない。資金を逃がしやすくなる……!」
酒場で飲んだ翌日。
アジトの私室に戻ったピエトは、集まったメンバーたちを前にして、張り詰めた声を落とした。
「正体不明の人間が、うちの動きを探っている。しかも、一人じゃない可能性がある」
室内の空気がわずかに変わる。
ノーラが眉をひそめた。
「藪から棒に何よ」
「最近、財務院が裏の金の流れを洗ってるって話は知ってるだろ」
ピエトは前髪を払い、早口気味に続ける。
「役所筋じゃ、“内偵”が入ってるって噂まで出てる」
「噂でしょ」
ノーラは冷めた声で返した。
しかし、バルトが腕を組んだまま低く唸る。
「……俺も妙な視線は感じてる」
ピエトはすぐさま頷いた。
「だろ!? 俺も昨日、事務室で妙なガキと鉢合わせた。帳簿の隠し場所を探ってやがった」
シモンは何も言わない。
ただ、感情のない視線だけがピエトへ向けられていた。
その沈黙に急かされるように、ピエトは身を乗り出した。
「今のメルカート商会を使い続けるのは危険だ。査察が入れば、資金の流れをまとめて掴まれる可能性がある」
「代案は」
短い問いに、ピエトは用意していた答えを滑り込ませた。
「アーク商会の裏窓口だ。あそこなら査察の手は及んでいない。資金を逃がしやすくなる……!」
ピエトの声が止むと、部屋に沈黙が落ちた。
ノーラが眉をひそめる。
「急に随分具体的ね」
「……同業から仕入れた。査察逃れの裏ルートだ」
「眉唾ね。そんな与太話で動くつもり?」
「……昨日、実際に探り入れられてるんだ。偶然で済ませる気か?」
その時、壁際に寄りかかっていたバルトが顔を上げた。
「……麦色の髪か」
ピエトの喉がひくりと鳴る。
「知ってるのか」
「いや……だが、俺も見た気がする」
バルトは眉間に皺を寄せた。
「特徴がねえんだ。思い返そうとすると輪郭がぼやける。だが、確かにいた」
部屋の空気が、わずかに変わる。
シモンは黙ったまま、机を指先で一度だけ叩いた。
静寂。
その沈黙が、ピエトの焦りをさらに煽る。
「だから言ってるんだ! 今のメルカート商会を使い続けるのは危険だ!」
ピエトは身を乗り出した。
「査察が入れば全部まとめて掴まれる! だが、アーク商会なら——」
「……なるほど」
シモンが短く遮った。
感情のない目が、ゆっくりと全員を見回す。
「視線を感じた者が複数。しかも互いの特徴が曖昧。内偵が一人とは限らん、か」
ノーラが小さく舌打ちする。
「面倒ね」
「持参金は前倒しで回収する」
シモンは即座に続けた。
「受領後、既存資金も含め、全額アーク商会へ移す」
バルトが壁から背を離す。
「……撤収か」
「ああ。この場所はもう長くない」
この場の結論に、ピエトは内心でほくそ笑んだ。
これで、アーク商会へ資金を移す大義名分ができた。持参金とともに、横領金も安全な場所へ移すことができる。
(そう、金さえ逃がしちまえばこっちの勝ち、ってこった。)
感想もらえたらうれしいです。




