ぜんぜん気づかんかった……こわ……
悪魔たちのアジトーー「陽だまりの家」の事務室に潜り込んでから、数日が経過した。
テオは今日も、部屋の隅の小さな机に向かい、山積みの書類と格闘していた。
インクで指先を黒く染め、長時間の作業による肩の凝りに耐えながら、ひたすら数字の書き写しを続ける。
ふとした瞬間に、長くて重い溜息をつきたくなるが、ぐっと飲み込んだ。
ここに採用された当初は、いつもバルトの視線を感じていた。怪しい動きはできなかった。
『目立つな。でも消えるな。都合よく見える位置にいろ』
(「隠れ蓑虫の術」上位術)
テオは余計な口を一切開かず、ただひたすらに、同じ調子で帳簿を写し続けた。
結果、テオの横を通り過ぎる者たちは、まるでそこに木箱か本棚があるかのように視線を滑らせるようになった。
完全に室内の「備品」と化している。
(よし……警戒の呪力は確実に薄らいでいる)
背中を丸め、視線を帳簿に落としたまま、テオは聴覚と視界の端を研ぎ澄ませて祭壇の内部を探り続けていた。
事務所の表は、どうやら慈善事業の相談窓口になっているようだ。
人の出入りがある際に、表の応接室の様子がちらりと覗ける。
清潔に整えられた受付。壁に飾られた、子どもたちが描いたらしいつたない絵。
時折、商人や市民が寄付に訪れる声も漏れ聞こえてくる。
(なんて手の込んだ偽装だ……)
テオの背筋に冷たいものが走る。
(おれが、マリエルさまを助けないと……!)
テオはペンを握る手にぐっと力を込め、決意を新たにした。
インク壺にペンを浸す間にも、一味の様子に耳をそばだてる。
「まぁ、いらっしゃい、院長。あら、お礼? いいのに。子どもたちの笑顔が一番のお礼だわ」
表からノーラの声が漏れ聞こえる。彼女は頻繁に出かけているが、事務所にいるときは接客をしているようだった。
その様子を、バルトがじっと観察している。彼はいつも奥で作業をしているが、来客のたびに手を止めて注意を向けるのだ。
一味の中心人物であるシモンはというと、あまりここを訪れない。
たまに訪れたかと思うと、静かに状況を確認し、短く指示を残してまた消えていく。
そんな中で、テオが今、最も意識を集中させているのは、斜め向かいの机に座る男だ。
ピエトは、表の様子はお構いなしに、何かに急かされるようにペンを走らせている。
テオが採用されたときから作業に追われているようだったが、昨日、シモンに何かを言いつけられてから、拍車がかかったようだ。
「余計な仕事増やしやがって……」
苛立った舌打ち。彼は几帳面に整えられた前髪を指で払い、おそらく、無意識に視線を落としている。
——足元の書棚。その一番下にある、大きな引き出しの奥。
(また、あそこを見た……ピエトが、触らせたくない場所だ)
最も警戒心が高い場所。
だからこそ、重要な呪術道具が隠されているに違いない。ーーたとえば、呪術契約の依代……。
が、今はバルトやピエトに見られている。
奴らの目をかいくぐる必要があるーー。
そんな膠着状態が破れたのは、ある日の午後遅くのことだった。
バルトが表の客の対応に呼ばれ、応接室へと席を外したのだ。
室内に残ったのは、テオとピエトの二人だけ。
「合わない……くそっ!」
このところのお決まりのように、ピエトは苛立って舌打ちをし、テオのことはもはや気にも留めずーー足元の書棚の裏へ手を伸ばした。
彼が引きずり出したのは、古い紙片の束だった。
ピエトは忌々しげにそれを睨みつけ、手の中でクシャッと丸め、ゴミ箱へと投げ捨てようと腕を振り上げた。
(……!)
待ち望んだ好機に、鼓動が跳ねる。がーー。
(待て、まだ、まだだ……)
『いいか、先に動くな。石になれ。強い奴は待つ側だ』
(師匠の教え……「死神の制止術」!)
標的が自ら弱点を晒す瞬間まで、息を潜めて同化すべし。
テオは手元の作業に集中しているふりをしながら、視界の端でその様子を窺った。
(奪うか? こんな機会、もう来ないかもしれない……!)
そう一瞬迷った時、表から声が響いた。
「おいピエト、ちょっと顔を出してくれ」
バルトの声だ。
「チッ……わかりましたよ」
ピエトは丸めた紙片を握りしめたまま立ち上がりかけたが、ゴミ箱へ向かう数歩すら煩わしかったのか、机の上に乱暴に叩きつけるように放り出し、足早に部屋を出ていった。
室内に残されたのは、テオと、机に放り出されたあの紙片だけだ。
いつ戻ってくるかわからない、空白の時間が訪れた。
(持ち去れば、すぐにバレる。……写すしかない)
テオは音もなく席を立ち、ピエトの机へ滑り込んだ。
丸められた紙片をそっと開き、目を凝らす。
そこには、細かい数字といくつかの名前がびっしりと書き連ねられていた。見覚えのある商会の名もある。
数字の羅列が何を意味しているのかはよくわからないが、ピエトが密かに隠し持ち、捨てようとしていたものだ。
(きっと……人々の魂を縛る、呪術契約の媒体……!)
テオは懐から小さな雑記帳を取り出し、手早く書き写し始めた。
存在を忘れ去られた幼少期。悲しい一人遊びで培われた集中力が猛威を振るう。
驚異的な速さと正確さで、数字の羅列が複製されていく。カリカリという微かな摩擦音だけが耳を打つ。
(あと、三行……)
成功が見えたその時、廊下の向こうから床板を踏む足音が響いた。
(——っ、間に合わないか!?)
指先が滑り、ペンの先が紙に突っかかった。
細かい数字の羅列の中で視線が迷子になりかけ、一瞬、頭の中が真っ白になる。
心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
ーー逃げるか?
いや、ここでやめるわけにはいかない!
テオは極限の集中力で浅く呼吸を止め、手首を固定した。
ギリッ、と芯が軋む音を立てながら、迫る足音に追われるように最後の一行を書き殴り、押し切る。
そしてーー
仕上げに、紙片を再びクシャッと丸めた。
(細かい皴まで気にしないよな……)
丸めた紙片を机の定位置に置き、音を立てずに自席へと舞い戻る。
直後、ガチャリと扉が開いた。
テオは俯き、帳簿の転記作業を再開した。
戻ってきたピエトはテオを一瞥することもなく、机の上の丸めた紙片を掴むと、そのまま屑箱へと投げ捨てた。
(……気にした様子はなかった……。ピエトは、あの媒体を処分したと思い込んだはずだ。)
テオは懐の手帳を、服の上からそっと押さえた。
(よし……! ついに呪縛の依代を写し取ったぞ……!)
ようやく手にした成果に、胸の内が高揚する。
だが、ペンを握る指先は小刻みに震え続け、シャツの背中には、どっと冷や汗が噴き出していた。
---
(でも、どうしたらいいんだ? これ……)
その日の事務所からの帰り道、テオは媒体を手に頭をひねっていた。
写しをとったはいいものの、処置の仕方がわからない。
太陽にかざして透かしを見たり、呪力の波動を期待して念を込めてみたりしたが、何ら手ごたえはなかった。
悩んだ結果、テオはその日の夕刻、下町の貸家の一室を訪れた。
コンコンッ、コンコンッ……
控えめだが迷いのないノックを繰り返すと、ようやく重い足音と共にドアが開く。
「誰だようっせぇな……えっ?」
現れたのは、寝起きのようなくしゃくしゃの頭をした師、ダリオだった。
「こんばんは! 突然すみません、師匠。どうしても相談したいことがあって……」
「いやいやいや、なんでここ知ってんだよ……」
「免許皆伝のあとにこっそり確認しました! あとでお礼しに来ようと思って!」
「ぜんぜん気づかんかった……こわ……」
何やら引きつった顔をする師に構う余裕もなく、テオはさっそく本題に入る。
「独り立ちをした身でありながら情けないのですが……」
「というわけで、入手した写しをどうしたらいいかわからなくて。師匠なら何かわかるのではと」
そう言って、写しを取った紙片を差し出す。
ダリオは億劫そうにため息をつくと、紙片に目を通し始めた。
はじめは流すように目を滑らせていたが、だんだん表情をあらため、じっくり読み込み出す。
「ふぅん、なるほどな……」
呟くと、テオに二、三質問をした。
「な、何かわかりましたか?」
「うぅん、まだ何とも言えんけど。とりあえず、このまま証拠……媒体を集めたらいいんじゃないか?」
「呪術の媒体を奪取するんですね!」
「あぁ、うん、それそれ。そのまま……あの~、儀式であれやそれやするから、そのまま持ってくるように。」
「わかりました!」
そこで、師は少し表情をあらためた。
「あと、正体は知られてないだろうな?」
「大丈夫です! 名前を知られることは魂を縛られること。真名は秘匿しています!」
「気をつけろよ。」
「はい! ありがとうございました!」
師から貴重な助言を受けたテオは、さらなる呪術の媒体を奪取すべく、力強くうなずいて部屋を後にした。
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(あ~、びっくりした。心臓飛び出るかと思ったわ)
破天荒な少年を見送って、ダリオはようやく一息ついた。
酔って適当な宣伝を書きなぐったばかりに、とんだ厄介ごとにかかわってしまったものだ。
差し出された小遣い分はと一週間付き合ってやったが、延長戦とは聞いてない。
ふたたび深いため息をついて、部屋に戻ろうとしたところで、背後から下卑た声に呼び止められた。
「よぉ、ダリオ。ちょうどよかった」
相手の顔を見る前から察しがつき、ダリオの眉根が自然と寄る。
振り向くと、薄汚れた身なりの男が二人、ニヤニヤと笑いながら立っていた。この界隈を取り仕切る闇組合の末端だ。
「どうした、機嫌よさそうじゃねぇか。いいカモでも捕まえたか」
「……おまえらのせいで急降下だよ」
「つれねぇこと言うなよ。おら、今月のみかじめ料だ。忘れてねぇよな?」
「……ああ、わかってる。ほらよ」
ダリオは面倒くさそうに懐から硬貨を数枚取り出し、男の手に落とした。
チャリン、と音を立てて硬貨を受け取った男は、わざとらしくため息をついた。
「相変わらずショボい稼ぎだな。もっとうまいことやって稼いで上納しろよ。そうすりゃ、組合での扱いもよくなるぞ」
「興味ねぇな」
「強がるねぇ。まあ、せいぜい頑張りな」
男たちが去っていく足音を聞きながら、ダリオは舌打ちをした。
どこの街にもひとつやふたつはある闇組合。
入ったつもりもないのに、場所代だと言って、勝手に金だけ巻き上げていく。
こんな稼業をしてれば避けられないのもわかってはいるが、それにしたって気分が悪い。
偉そうに上からあれやこれやと……。
(なんだって道を外れてこんな生活してると思ってんだ……)
ダリオは髪を乱暴にかき上げ、憂さを晴らすように吐き捨てた。
「……ちっ、酒場で一杯引っ掛けるか」
感想もらえたらうれしいです。




