これが……影踏みの術……!
「アルバート様、例の件は滞りなく進んでおります。どうかご安心を」
「……ああ、頼む。あとは君たちに任せる」
ロゼッティ家の屋敷の裏手。
しかめっ面をしたグレイストン伯爵に、人の良さそうな青年が柔らかく微笑みかけていた。
(あいつだ……! あいつが、お嬢さまの魂を縛る契約の仲介者……悪魔の代理人!)
荷物運びに紛れ、少し離れた柱の陰から目を光らせていたテオは、密かに拳を握りしめた。
この数日、テオはグレイストン伯爵の契約の縁を断ち切るべく、屋敷に出入りする彼らを観察し続けていた。
『殺す前に調べろ。知らねぇ相手は殺せねぇ』
(師匠の言葉……「影踏みの術」!)
契約の関係者を特定し、依代に辿り着くための手順。
標的がどこへ行き、誰と繋がり、何に反応するのか——その全部を拾え、と師匠は言った。
テオは、師の助言に従い、まずは周りの人物について探っていた。
しかし、屋敷の来客に対して少しでも不審な動きを見せれば、下働きなど即座に外へつまみ出されてしまう。
どうやって、自然に近づき、観察するか。
テオはここで、もう一つの教えを思い出す。
『おい、歩幅を合わせろ。目立ってんぞ。背景のシミになれ』
(世界と一体化する隠身の術、「隠れ蓑虫の術」……!)
伯爵とその一行の後ろを、つかず離れず。周囲の使用人と寸分たがわぬ歩調で。
会話に耳をそばだてる。一定のテンポで窓ガラスを拭きながら。
ふと、目を向けられて、どきりと胸が弾む。が、すぐに逸れる。
同じ位置、同じ速度。——二度目には、もうわざわざ意識して見る者はいなくなる。
その警戒の隙間から、断片だった情報が、少しずつ繋がっていく。
その日、グレイストン伯爵と別れた同行者一行は、伯爵を待つ間、事務室に通されていた。
テオは、給仕に紛れて部屋に滑り込むと、衝立の裏で燭台磨きを装った。
作業は続けたまま、隙間から様子を窺う。
彼らは、伯爵の慈善事業の関係者——のようにふるまっているが、偽装に決まっている。
ロゼッティ商会との共同事業、などと言って、仲間を入り込ませているのだ。
日ごとに顔ぶれが変わるようだが、今日は四人だ。
「……シモン。先日の支援金の手配ですが、書類の数字が少し合いません。屋敷を辞去した後で照合しておきます」
灰色の髪の男が、膝に抱えた書類鞄の中身を確認しながら、中心のソファに座る男に向かって声を掛けた。
声を掛けたのは『ピエト』。一味の帳簿係のような役割らしい。
いかにも神経質そうな奴で、きっと金にがめつくて、帳簿の操作とかしているに違いない。
「あら、ごめんなさい。私が急いで帳簿を書き写したからかしら。戻ったら一緒に確認するわね」
ピエトに応えたのは『ノーラ』と呼ばれる女性。上品なブラウス姿で、にこやかに微笑みながら場を和ませている。
しかし、こんな一味にいるからには、裏の顔があるに決まっている。きっと損得勘定にうるさい女狐のような奴だ。
「……昨日、寄進を申し出た商人がいただろう。その入金分が記帳されてないんじゃないか?」
指摘を入れたのは『バルト』。地味な職人風の男で、目端がよく効くようだ。
あの油断ならなそうな眼つきからして、悪事を隠すための見張り役だ。
そして、三人いずれも、話し始める直前の一瞬、視線は必ず一人の男へと向けられていた。
『シモン』。先ほど伯爵と親しげに言葉を交わしていた青年だ。
彼ら四人の様子からして、おそらく、この『シモン』が、一味の中心人物だ。
パリッと整った身なりで、人当たりもいい。伯爵も自然に言葉を預けている。——いかにも信用されそうな男だ。
ーーしかし、テオは知っている。こういう人物こそ、裏で糸引く悪役で、冷酷な素顔を隠しているのである。
劇作家モーリスの、あの『仮面の騎士と裏切りの聖者』にも書かれていたのだ。間違いない。
(あの男……シモンが、マリエルさまを縛る呪術契約の仲介者、要の人物だ!)
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屋敷での観察を経て、シモン一味の役割、出入りの時間を把握したテオは、次の段階へと進んだ。
狙うは、呪術の根城の特定だ。
夕刻。用事を終えて屋敷を出る彼らの後を、テオは少し距離を空けて追っていた。
シモンは伯爵の馬車に同行し、前を歩くのはバルト、ノーラ、ピエトの三人だ。
テオは、道端の石ころを蹴りながら帰路につく退屈そうな少年を装いながら、胸の奥では鼓動が早鐘を打っていた。
相手は用意周到な呪術集団だ。バレれば、ただの悪戯で済むはずがない。
『目で追うな。流れで追え』
『同じ距離を保つな。詰めて、離れて、また詰めろ』
「隠れ蓑虫の術」の教えを思い出しながら、テオは市場の買い物客に紛れた。
大通りを進むノーラたちは、和やかに談笑していた。
「今夜は久しぶりに『青い鳥亭』に寄ってみようかしら。あそこのシードルは格別だわ」とノーラが言い、ピエトが「いいですね」と相槌を打つ。
まるで、ごく普通の善良な市民の姿だ。——だが、テオは騙されない。あんなものは表向きの顔だ。
その時、最後尾を歩いていたバルトが、ふいに足を止め、背後を振り返った。
鋭い視線が、テオのいる方向に向けられる。
(しまった! 奴の探知に引っかかった!)
テオはビクッと肩を震わせた。全身の血が引いていく。
『バレたと思うな。“バレてない奴の動き”を続けろ』
(ダメだ、動きを止めるな……)
ムリヤリ身体を動かし、石ころ蹴りを続ける。しかし、今の反射は見られていたはずだ。
ーー心臓の音が、やけに大きい。
しかし、バルトの視線はテオを素通りし、通りの向こうの看板へと向けられていた。
「……いや、もう閉まってるな」
バルトがぼそりと言うと、ノーラが「あら、残念。明日にしましょう」と笑う。そのまま彼らは再び歩き出した。
(あ、危なかった……! 呪術の網の目を、間一髪でくぐり抜けたぞ……!)
テオは冷や汗を拭いながら、安堵の息を吐いた。
『一回で終わらせるな。積め。欲張った分だけミスるぞ』
(……今日はここまでだ)
はやる気持ちを押し殺し、テオは細い脇道へとそれていった。
それから数日間、テオは、相手に悟られないよう、慎重に彼らの足取りを追った。
尾行の開始地点を変え、髪型を変え、時には父の帽子や兄の上着を拝借したり。
奴らの印象に残らないよう注意を重ねた。
三日目の夕暮れ。市場から入り組んだ路地へと向かう彼らを追っていたテオは、ふと違和感を覚えた。
前方を歩くバルトとピエトの様子が、わずかに気にかかった。
バルトはときおり歩幅を緩めて、何気なく周囲に目を走らせている。
ピエトもまた、抱えた鞄の位置を直しながら、落ち着かない様子で後ろを振り返った。
「……最近、妙だ。どうも視線を感じる」
バルトの低い声が、微かに風に乗って聞こえた。
「やめてくださいよ、こんなところで」
ピエトが不安げに声を潜める。
(警戒されている……)
テオは緊張に身を固めながら、一定の距離を保って彼らの後を追う。
路地裏に入り、人通りがまばらになったその時——。
バルトが突如、ピタリと足を止めた。
そして、ゆっくりと背後を振り返る。
その視線が、路地の端にいたテオの上をなぞった。
逃げ場のない一本道。
バルトの射抜くような黒い瞳が、路地の端にいたテオを真っ直ぐに捉えた。
(——っ! 完全に目が合った!)
足が竦む。テオの呼吸が止まった。
ごまかしは効かない。この距離、この殺気。
バルトの目が、細められる。
疑念と警戒を孕んだその視線が、テオの顔を、麦色の髪を、凡庸な体格を、じっくりと舐めるように探った。
冷汗が流れる。動けない。
(……まずい。消される……!)
テオが、死を覚悟したその瞬間ーー
バルトは小さく舌打ちをすると、興味を失ったように視線を外した。
「……いや、気のせいか。ただのガキだ」
「脅かさないでくださいよ、もう」
ピエトがため息をつき、二人は再び歩き出して、すぐ先の路地の角へと曲がっていった。
(……えっ?)
テオは、その場に呆然と立ち尽くした。
(……見逃された?)
——いや、違う。あれだけ警戒していた男の目を、逸らさせた。
(通じたんだ……! すごい……! 「隠れ蓑の術」が、俺の気配を完全に風景へと溶け込ませた……!)
恐るべき暗殺術の冴えに、テオは内心で大真面目に感動の震えを噛み締めていた。
気を取り直し、角を曲がった彼らを慎重に追う。
やがて二人は、表通りから少し外れた街区にある、古びた建物へと入っていった。
建物には、「陽だまりの家」支援事務所と書かれた小さな看板が掲げられていた。
(支援事務所……奴らが話してた通りだ)
(ここだ……間違いない。ここが悪魔たちの根城……!)
ついに呪術の祭壇の所在を突き止めた。テオは力強く拳を握りしめ、次なる潜入への決意を固めた。
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(この後は……伯爵と奴らの縁を断ち切るのと、魂を縛る契約書の呪符入手、だな。どっちにしても、アジトに入り込まないと……)
出入口は、正面の扉と、横の細い路地に面した勝手口の二箇所。
昼間、正面の扉からは時折、身なりの貧しい人々が入っていく。表向きの慈善事業の相談客だろう。
だが、彼らのほとんどは数分もしないうちに外へ出てくる。おそらく、表の応接室だけで対応されているのだ。
午後になると、荷馬車が勝手口に横付けされ、重そうな木箱がいくつか運び込まれていた。
(——忍び込むか?)
日が落ちてから、テオは裏の勝手口を遠巻きに確認した。だが、扉には頑丈な鉄の南京錠が掛かっている。さらに、二階の窓からはかすかにランプの灯りが漏れていた。
夜通しで誰かが残っている。夜間は危険すぎる。
(なら、明日の昼、配達員に紛れる? ……いや、無理だ)
テオは昼間の光景を思い返す。荷物を運んでいた男たちは、出迎えたバルトと短い挨拶を交わし、笑い合いながら慣れた様子で世間話をしていた。
あの空気は、顔見知りのものだ。あの中に、見慣れない下働きが急に荷物を抱えて混ざれば、確実に浮く。誰何されれば誤魔化しきれない。
(どうやって内部へ入り込む……?)
通りの向かいの物陰で、テオは唇を噛んだ。
——何か、何か方法はないか……。
視線が、建物の外壁から窓枠、そして扉の隙間へとせわしなく走る。
——人の出入りがある場所は……正面か。
もう一度、正面玄関のあたりを確かめるように見た、その時だった。
事務所の正面玄関の横。ガラス窓の隅に、小さな白い紙が貼られているのが見えた。
「事務手伝い募集。給金相談」
(……これだ!)
——翌日の昼前。
テオは意を決して、「陽だまりの家」の扉を叩いた。
ぎい、と鈍い音を立てて扉が開く。
応対に出たのは、バルト。目ざとく、気配に敏感な奴だ。
(少しでも殺気を漏らせば、魂を絡め取られる。慎重に行け……)
「何の用だ?」
ぶっきらぼうな声が降ってくる。
テオが口を開きかけた、その時だった。
バルトの背後の暗がりに、巨岩のような大柄な男が、いつの間にか音もなく立っていることに気づいた。
(ひっ……!? いつの間に!?)
これほどの巨体でありながら、扉が開いた時、まったく気づけなかった。
感情の読めない真っ黒な瞳が、ただ静かにこちらを見下ろしている。
(調査不足だ、こんな奴がいたなんて……術者を守護する傭兵か!?)
予想外の事態に撤退を考え始めたとき、バルトがわずかに振り返り、声を掛けた。
「子どもだ。お前はいい、ブルク。下がってろ」
顎でしゃくると、男は無言のまま、すっと奥の影へと溶け込んでいった。
(危なかった……『ブルク』。覚えたぞ。でも、取りあえず今は……)
テオは気持ちを切り替えて、バルトに向き直った。
「あ、あの……表の貼り紙を見て、きました。事務の、お手伝いを……」
バルトは扉を半開きにしたまま、体をこちらへ向けようとはしなかった。
その鋭い視線が、テオの顔から手元、そして背後の通りへと素早く滑る。
——警戒されている。
面倒くさそうな応対の裏で、こちらをざっと値踏みしているようだった。
(このままじゃ通してもらえない……どうする……)
『結局、人間は信じたいもんしか見ねぇ。だから嘘を食わせるんじゃなく、勝手に嘘を育てる隙間を作ってやりゃいいんだ』
ーー「心臓貫きの秘儀」だ……!
『強く見えるな。弱い方に寄せろ』
テオはあえて少し肩を丸め、視線を足元に泳がせた。
バルトは値踏みするようにテオを見下ろす。
「事務の手伝い? 悪いが、うちはカネがないぞ。給金は期待するなよ」
ふん、と鼻をならすと、釘を刺すように言った。
『理由なんて薄くていい。重いと疑われる』
「い、いいんです。少しでも、働かせてもらえる場所があれば……言われたことは、何でもやりますから」
声は少し上擦り、ひどく頼りなさげに響かせる。
バルトの厳しい視線が、テオの顔から手元へと落ちた。
『全部見せるな。一点に絞らせろ』
テオは反射的に、長年の木彫りや下働きでできたマメのある手を一瞬開き、あえてーー隠すように身をすくめる。
一瞬の沈黙。バルトの目が、テオの年若さと、その「働き慣れた手」を品定めするように見比べた。
「……字は書けるのか?」
「は、はい。あの……これ」
テオは懐から、四つ折りにした粗末な紙片を取り出し、わずかに震える手で差し出した。
「文字が書ける証拠にと……家で書いてきました」
バルトはそれをひったくるように受け取って開いた。そこには、商館で使われるような荷物の覚え書きが、見事な筆致で書き連ねてある。
軽く目を通したバルトは、わずかに眉をひそめた。
「……お前、やけに字が綺麗だな」
『違和感は消すな。理由を与えろ』
「……雑用と、書き写しだけやらされてて……」
テオは肩をすくめ、上目遣いでぼやいて見せた。
バルトの目がテオを射抜く。
興味は、持たれている。しかし、警戒は解けきっていない……。
(……ダメか?)
その時。
奥から、「くそっ……合わない!」というピエトの苛立った声と、紙の束がバサッと崩れ落ちる音が響いた。
バルトが小さく舌打ちをする。
(来た……!)
転がり込んできた好機に、テオは表情を変えないまま、内心で快哉を叫んだ。
『迷わせるな。今決めさせろ』
「なんだか、大変そうですね……。あの、難しいようでしたら、ぼくは次のところへ……。」
彼の視線が、奥の惨状と、目の前のテオを往復する。
再びテオの顔へ視線を戻し、小さく息を吐いた。
「待て……とりあえず、今日だけだ」
バルトは低い声で告げた。
「裏紙の整理だけやらせてみる。俺の目の届くところから絶対動くな。少しでも変な真似したらすぐにつまみ出すからな」
『ここまですりゃ、カモはーーあー、標的は、自ら心を縛って自壊する……そんな感じだ』
(やりました! 師匠! 見事標的の心を貫きました……!)
「じゃあ、奥へ来い」
バルトが背を向け、事務室の奥へと歩き出す。
「ありがとうございます」
深く頭を下げてからその後を追うとき、テオは自分が思わず大きく息を吸い込んでいることに気づいた。
シャツの背中には、いつの間にか冷たい汗がびっしりと張り付いていた。
バルトに連れられて足を踏み入れた事務室は、カビと古い紙の匂いがかすかに立ち込めていた。
「お前はあの隅の机を使え。この裏紙を大きさごとに分けて、使えるものと捨てるものに分けろ。……それ以外の場所には、絶対に触るなよ」
「はい」
部屋の斜め向かいの机では、灰色の髪の男——ピエトが、神経質そうにペンを走らせている。
(ついに祭壇の心臓部に潜り込んだ……! ここにある書類はすべて、人々の魂を縛る呪具に違いない!)
(この中から、マリエルさまを縛る呪符を探し出すんだ……!)
---
夜半。
古びた事務所の裏口が、かすかな軋みを立てて開いた。
ランプの灯りだけが落ちる薄暗い事務室に、男が一人、音もなく入ってくる。
「あら、お帰り、シモン。今回はちょっと長かったわね」
机に軽く腰掛けていたノーラが、笑みを浮かべて声をかけた。
「引き止められてな。……人は?」
「帰した。おれたち以外は誰もいない」
窓の隙間から外の暗がりを覗き込んでいたバルトがぶっきらぼうに答える。
「ふん、顔色が悪いな」
「……最近、何かに見られてる気がする……」
バルトは眉間に深い皺を刻み、探るような目で路地の奥を睨みつけた。
ここ数日、彼はどうにも落ち着かない様子だった。
「ふぅん……神経質になってるだけじゃない?」
「ちっ」
ノーラがからかうように笑うと、バルトは忌々しげに舌打ちをする。
入口に立つブルクがちらりと視線を向けるが、会話に入ってくることはなかった。
「例の新入りは?」
「あぁ、テ、ティ、ティル? ティコ? そんな名前の……。問題ありません。字は綺麗ですし、手も早い」
ピエトは、手元の数字の羅列から顔を上げると、煩わし気に前髪を払って答えた。
「奥に入れてるのか」
「中身なんて読める頭じゃないですよ」
軽く、鼻で笑って切り捨てる。
「気を抜くなよ。詰めの段階だ」
「わかってる。楽しみね」
その口元は弧を描き、瞳は獲物を狙う猫のように煌めいていた。
「……浮かれるなよ」
この場を統率する男の言葉に、各々静かに頷いた。
感想もらえたらうれしいです。




