七十日目(一)
柔らかい感触が私の頬を優しく撫でていた。起き上がり、頬についていたものを手に取ると、それは白い可憐な花びらだった。
頭上高くから、風に揺られて色とりどりの花びらが舞っていた。レンジュの墓にも、まるで島からの贈り物であるかのように花びらが薄く積もっていた。
きれい……
幻想的な光景に思わず見惚れていた私だったが、すでに昼下がりを迎えていることに気付くなり、慌てて隣で寝ているマヅチの肩を揺すった。
ここ数日まともに食べていないから、さすがにそろそろちゃんと栄養を摂取しなければならない頃合いだった。
マヅチはぐっすりと寝息を立てたままなかなか目覚めなかった。私より何倍も働いていたのだから、当然と言えば当然かもしれない。
私は彼の分まで食べ物を採ってくるべく、よし、と手を付いて立ち上がった。だがその時、不意にどこか遠くから大きな音が聞こえた。
「何!?」
周囲を見渡す私のところへ、さらに音――いや、人の声が降り注いできた。
見上げると、背後の岩壁の上で髭を生やした初老の白人男性がこちらを見て、私のわからない言葉を大声で発していた。
人……? 何してるんだろう? ん?
「あッ! 違う!」
私は大慌てで白人男性に手を振った。
「マヅチ‼ 起きて、起きてってば」
私は彼の頬を思い切りビンタして無理やり起こした。
「痛いって!」
「見て!」
寝ぼけ眼で怒るのも束の間、彼は私の指差した岩壁の上へと首を傾け、こちらへ向かって大声を上げている白人男性の姿に気付いた。そしてさっと立ち上がり、マヅチもまた大声で何やら叫び返した。何度か相手と言葉を交わし合うと、男性は私たちの状況を察したのか、「待っていろ」と言うように手を上げて姿を消した。
英語が得意でない私には二人のやり取りは聞き取れなかったが、ようやく助けが来たのだとみてまず間違いはないだろう。
「マヅチ、私たちやっと――」
ぽつり、と彼が何か呟いた。
マヅチ……?
マヅチは私に震える背を向けて泣いていた。彼の呟き声が今度ははっきりと私にも聞こえた。
「ごめん、俺たちだけ……」
私は舞い上がっていた自分が嫌になった。
そして、目を見開いた――
いや、違う。何かが、おかしい……
私は胸に燻る違和感の正体に思い至った。
そうだ……このタイミングでマヅチがこんなこと言うなんて、おかしい。私でさえ喜ぼうとしていたのに、楽天的なマヅチが私の前でこんな風にレンジュに謝るなんて……あれ……? でもそれじゃあ……
突如として心拍数が上がった。じっとしているだけで鼓動の音が聞こえてくる。
私は目の前の彼を見つめた。
この人、誰……?
過去に感じたいくつかの些細な違和感が私の脳裏に一息に蘇ってきた。それらの違和感は次第に寄り集まって輪郭を帯び、やがて一つの残酷な帰結を映し出した。
おかしい、おかしい、おかしい! そんなはずないッ‼
もしこの帰結が正しいなら、私はあの日から……
私は自分の脳を槌で粉々に破壊したくなった。
彼が私に飲ませてきた薬は、本当に免疫を強化するためのものだったのだろうか?
夢の中で最初の思い出作りとして花輪を作ったあの日の出来事は、本当に全て私の夢だったのだろうか?
先ほどのやり取りが聞き取れなかったのは、果たして本当に私の英語力が拙いためだろうか?
何もかもが、違った。
これまで現実だと思っていたものこそが巧妙に偽られた『夢』だったのだと悟った時、私の目から止めどなく涙が溢れ出した。心も身体も脳も骨も筋肉も、全てが溶けてドロドロと混ざり合っているような感覚だった。もう、何を信じたらいいのかわからない。
「ねえ……」
私は声を詰まらせながら、依然背を向け続ける『彼』に訊いた。
「どうしてレンジュが、マヅチの服を着ているの?」
彼はゆっくりと身体を反転させた。
幻の暴かれた彼の素顔を見て、私は彼が自分の知らないところで多大な悲痛のために、おびただしい数の見えない傷を負っていたのだと知った。その双眸からは、長らく張り詰めていた糸がついに切れたかのように、細くきらめく筋が頬を伝っていたが、最後に残された自尊心だけは失くすまいと闘うように、二つの傷だらけの眼は確固たる強い意志をもって、厳然と開かれていた。
レンジュは端的に答えた。
「イサナに生きてもらうためだよ」
私に……生きてもらう?
わからない、何も。でも、目の前の人物がマヅチでなくレンジュだと言うのなら……
「洞穴の中にいたのは……マヅチ、なんだね……」
「そう。俺が入れた」
私は嗚咽を堪えることができなくなった。
「どうして……どうしてそんなこと……」
「俺じゃなくてあいつが死んだって知ったら」
レンジュの声も、涙に濡れてか細く震えていた。
「イサナは、生きられなかっただろ?」
私は地面に座り込んで慟哭した。




