三十七日目(一)
朝の木漏れ日が一条、拠点に差した。
私の身体は、まるで上から暗幕が覆い被さっているかのように地面に吸い寄せられた。死んだレンジュに背を向けて立ち上がるのはこの上もなく苦痛だった。
今まで数え切れないくらいレンジュに助けられてここまで生きてきた私が、レンジュの死後なお生き伸び続ける権利などあるのだろうか。自分を支えてくれた人間の遺骨を上から見下ろすなど、情をもった人間のすることだろうか。
例え許されても、私には亡き親友の骸の上を歩くことなどできない。そんな十字架を背負ってまで生きていくことに、意味があるとは思えない。共に骸となって土の下で一緒に眠るのが、些細ながらもレンジュへの唯一の恩返しになるのではないだろうか。
何も、わからなかった。私に何が許されていて、何をしなければならないのか。なぜ、レンジュが私たちを置いて死んだのか。
もうこのまま、起き上がることなく骸となって、レンジュと共にこの島の土に還りたいという考えしか残らなかった。
「このままここで白骨化するつもりか?」
マヅチの声が宙を飛んできた。
「いつまで寝ているつもりだ、イサナ。惰性に任せてでも生きろ。イサナは生きなきゃいけないんだ」
どうして「私は」なのだろう。まるでマヅチにはその義務はないみたいな言い方だ。
「レンジュがいない世界で生きたって、楽しくも何ともないよ。この世界は、マヅチとレンジュが二人揃って、初めて私の生きたい世界になるの。今のこんな世界じゃ、いくら生き永らえたって幸せなんか訪れない」
「無理でも幸福に生きるんだ。それがイサナの義務なんだ」
マヅチは食い下がった。一晩寝て気持ちに余裕ができて、また私を支えなければと思っているのかもしれない。
「どうして、私なの?」
彼は視界の外から、私の顔の横にマンゴーを置いた。
「レンジュにとっても俺にとっても、イサナは特別な存在だからだよ」
「私なんて二人に迷惑かけてばかりだったのに?」
溜息が聞こえた。呆れられているようだった。
「それなら立場を入れ替えて考えみろ。レンジュが俺たちなしじゃ生きていけないような人間だったとして、イサナは自分たちに迷惑ばっかりかけていたら、レンジュを鬱陶しく思うか?」
私は首を振った。
「そんなわけない」
「ああ。イサナなら、今と同じくらい大切に思ったはずだ。俺たちにとって、イサナはどんなことがあっても守り通さないといけない存在なんだ。イサナは弱くて、そして何よりも大切だから。レンジュは自分が死んだせいでイサナまで死んだと知ったら、まず間違いなく喜びはしない」
私は天国でレンジュと再会する想像をした。が、天国での彼の表情は仮面であるかのように微動だにしなかった。彼が不満をもっているからではない。私が、彼がどんな顔をするかわからないからだ。
「あの世で再会した時にあいつに笑ってほしいなら、とりあえずそれを食うことだな」
マヅチはレンジュのことをよく理解しているように見えた。
私は助言に従った。
いつだって私の願いは叶わない。
せっかくマヅチが快復してまた三人で過ごせると思った矢先、レンジュが私たちの前から――いや、私の世界からいなくなってしまった。どれもこれも、禍根は全て私が三人でこの世界を生きていきたいなどと願ってしまったことだろうか。散々二人の肩を借りて人生を歩んでいながら、その上神の背中にまですがろうなど、厚かましいにもほどがあるとして神罰を下されているのかもしれない。
私はもう、何も願ってはいけないのだろう。
レンジュの消失した世界は、味も素っ気もなかった。彼がこの世界にどれだけの色を灯してくれていたのか、今頃になって私は知った。
気分は頭の中で雨が降っているかのように気怠かったし、確かに味覚はあるはずなのに、舌はどうしても美味な果実を美味と感じようとはしなかった。緑の海に鮮やかな原色の草花を点々と浮かべられたこの密林の風景も、視覚と意識の狭間にフィルターでもかかっているかのようにどこかくすんでいた。
それとも、これも時間があらゆる心の傷を癒すのと同様に、レンジュと共に去っていったものたちを少しずつ取り戻していくのだろうか。
何だかそれは、レンジュが死んだという悲しみを忘れるようで嫌だった。彼への哀悼の念を忘れるくらいなら、ずっと欝々とした気分のままでいいし、味も視界も、濁ったままで構わない。
私はそう思っているのに、マヅチがそれを頑として許さなかった。将来の私が幸福に生きることは、現在の私の不幸だというのに。彼に私の気持ちがわからないはずがない。マヅチだって、心のどこかでは私と同じ気持ちを抱いているはずなのだから。でも、彼はこのことに限っては一歩たりとも譲ろうとはしなかった。
マヅチは私を諭すように何度も同じことを言った。
私の義務は幸せに生きることだ、と。
「そして俺の義務はイサナを幸せにすること」
私たちは曇り空の下、空き地の倒木の上に並んで腰を下ろしていた。
以前と比べ、周囲の低木の背が伸びている気がした。もうそれだけ長い間、私たちはこの島で生活を続けているのだろう。
「難しそうな務めだね……」
「俺を苦しませたくないなら、諦めて幸福を望んでくれ」
マヅチは疲労を湛えた声で言った。
私は空に浮かぶ薄汚れた埃の塊から視線を下ろした。
「どうすればいいのか、わからない……」
マヅチは私を見た。
「死んだレンジュが私の幸せを望んでいるのはわかった。でも、私はどうしたら自分が幸せになるかなんて、わかる気がしないの。マヅチだって幸せになれ、としか言わないし。具体的に、私はどうすればいいの?」
私が詰るように言うと、彼は思慮深く言葉を選択するように膝の上で手を組んだ。
「俺も、そのことを考えていた。イサナはどうしたら幸せになれるのか。でも、答えは見つからなかった」
答えがないわけじゃないぞ、とマヅチは慌てて補足した。
「だから、考え方を逆にしてみた」
「逆?」
マヅチは頷いた。
「つまり、今のイサナにとっての不幸とは何か」
私にとっての不幸……
私という肉体に私という自我が芽生えた時点で、私は不幸なのではないだろうか。
そんなことを考えたが、もちろん彼の答えは違った。
「たぶん、過去と未来、だと思うんだ」
「過去と未来? 未来はまだしも、私の過去はもう変わらないよ?」
私の暗黒時代は変わりもしないし、消えもしない。未来永劫私の本質として存在し続けるだろう。
「そうじゃない。意識だ」
「意識?」
彼が何を言っているのかよくわからなかったが、難しいことを真剣に考えていることだけは伝わってきた。
「イサナはレンジュと過ごした過去や、レンジュのいない未来のことばかりを考えている」
私は心の中で頷いた。
「いわばイサナの意識は過去と未来に囚われ、そこで生きているんだ。現実でレンジュが死んだばかりだからそうなっちゃうのはわかるけど、イサナの身体が本当に生きているのは、過去でも未来でもない。今なんだ」
「うん……そうだね」
「これまでの過去、これからの未来が幸福であろうとそうでなかろうと、現在を生きているはずの人間が現在から過去や未来に意識を飛ばしたままで、意識を失った現在の肉体が幸福を感じられるはずはないんだ。楽しかった過去をふとしたきっかけで思い出すのは構わない。でもずっとそこに入り浸っていたら、その時間が過去に流れた時、その過去は幸福なものとは呼べないはずだ」
漠然とマヅチの言葉の意味をイメージできた気がした。
この島に来た当初の私は、忘れたいつらい過去に縛られ、現実になってほしくない非情な未来に絶えず意識を奪われていた。マヅチが助けてくれていなければ、私の意識は現在に戻ることができずに枯れるように死んでいたのかもしれない。
そしてレンジュを喪失した今、私の意識はレンジュと過ごした過去と、レンジュのいない未来の狭間を延々と往復していた。
「きっと、今のイサナの不幸の源流はそこにあるんだと思う。だから意識をちゃんと現在に留めれば、今のイサナにまとわりついている不幸の多少は取り除かれるはずだ」
私のこの身体が欲していたのは、私の意識だったのだろうか。
「どうすればつらい未来を回避できるかじゃなくて、どうすれば今の自分が楽しめるのかを考えればいいんだ――といっても、今の状況で楽しめることなんて、そうそう思いつかないだろうから、ちょっと見方を変えて、この島での生活が後で思い起こして懐かしめる記憶になるように、思い出作りをするのが一番いいと思う。考えながら口にしていたから、なかなかの長広舌になっちまったな」
マヅチはそう言葉を結んだ。
思い出作り、か……いつか天国でレンジュに見せたら、笑ってくれるかな。
ようやく、満面の笑みを浮かべるレンジュの姿を想像することができた。
「ありがとう、マヅチ。一緒に作ろ、思い出」
マヅチは笑った。
「ようやくイサナの明るい顔が拝めたよ」




