三十日目(一)
その日の私は、ふわふわとした幸せな夢を見た。
夢の中では、私はまだ眠りから覚め切っていない、朧げな意識の中にあった。水辺の寝床でうっすらと瞼を開けている私の視界はぼやけていたが、まだ暗い時間だったのを覚えている。たぶん夜明けの頃だろう。根拠のない確信だが、夢の中ではよくあることだ。
そして、私のこの夢が幸せである理由、それはぼやけた視界の真ん中で陽炎のごとく揺らめく一つの影にあった。視界がぼやけていても、未だ朝日の一条の光明すら差さない暗闇の中であっても、なぜだか私には、目の前の人物の着ている服がオレンジ色であることをはっきりと視認できていた。
マヅチは私の上にまたがるような体勢で、何やらごそごそと手を動かしていた。
「……さあ、飲んで」
彼は夜気に紛れるような囁き声で言った。
私の口元を濡れた平べったい硬いものが突いた。おそらくレンジュが薬作りに使用していたヤシの殻を割って作った器だろう。
私は口中に注がれた液体を、少しむせながら言われた通りに飲み干した。飲みやすいように、薬をヤシの実ジュースと一緒に飲ませてくれたようだった。
「マヅチ……元気になったの?」
私は掠れた小さな声で尋ねた。
「ああ、レンジュのおかげで、たった今な」
声と共に、少しずつマヅチの輪郭がはっきりしてきた。
ああ、やっと元気になったんだ。よかった、本当に……
私の心は温かい気持ちでいっぱいになった。もう不安など欠片ほどもない。今日からここは天国だ。
「今飲ませたのは、レンジュが俺に飲ませてくれていた、免疫を強化する薬だ。これで身体の中のウイルスを駆逐しないといけない」
彼は説明した。
ウイルス? あれ、あの話って本当だったの? それとも、普通の風邪のウイルスでも侮れないってことなのかな……
「イサナの身体にもウイルスが入り込んでいるかもしれないから、しばらくは飲み続けてもらうよ」
「うん、ありがとう……それにしても、よかった。マヅチが元気になってくれて」
私は彼に微笑みかけた。おそらく見えてはいないだろうが、そうする他にこの心の歓喜を抑える方法などなかった。
ふと、あることに気付いた。
「ねえ、マヅチ」
「ん?」
「もうマヅチの風邪が治ったんだから、これからは私も拠点で一緒に寝てもいいんだよね?」
ふっ、と彼の小さく笑う声が聞こえた。
「ああ。一緒に戻ろう」
彼のその返答が嬉しくて嬉しくて、危うく涙が出そうなほどだった。
「うん!」
私は差し出された手を取って、ふわふわと今にも舞い上がりそうな身体を起こした。
とても、幸せな夢だった。
朝、私は多幸感を抱えたまま目を開けた。ちょっと頭が痛くて、口の中がパサパサに渇いていたが、気分は爽快だった。吉夢を見るだけでこんなにも寝覚めの気分が変わることに驚いた。
だが、身体を起こした私はそれとは比較にならない驚愕を目の当たりにした。
そこは、拠点だった。私は水辺へ移動する前に寝ていた拠点のいつもの場所に、寝床を敷き戻して眠っていたのだ。そしてそれは、夢の中での私の行動と合致していた。
つまり、あれは夢じゃなかったの? だとしたら……
「ふぁーあ」
後方から、のんびりとした欠伸の声が聞こえた。
もしかして、本当に……
私は高まる鼓動を抑えて首を捻り、声の聞こえた方を振り向いた。私の驚愕は、すぐさま歓喜へと一変した。そこには、夢に見た通り、昨日まで長らく病床に臥していた友の、溌剌とした元気な姿があった。青白かった顔色は、この熱帯に来てからよく焼けた焦げ茶色へとすっかり戻り、その陽気そうに伸びをする様子に懐古の思いすら芽生えた。
「マヅチッ‼」
感極まった私は、彼に飛びついていた。
あれは、夢ではなかったのだ。一体なぜ夢だと思い込んだのだろう。いや、二週間も寝たきりだった友がいきなり快復すれば、無意識に夢だと思い込んでしまっても仕方がない。あんな悪夢を見ていたのだから、なおさらだ。
でも、もうそんなことはどうでもいい。マヅチが元気になってくれたなら、それだけで私は幸せだ。きっと昨日熟睡できた時、すでにマヅチの風邪は治っていたに違いない。辛抱強く看病してくれたレンジュに感謝しなくてはならない。
「おいおい、朝っぱらから何だよ、イサナ」
そう言って煩わしそうに私を引き剥がそうとする彼の態度も、今の私には嬉しいご馳走だった。臥せっていた時の彼なら、そんなことをする余力すら残っていなかったはずだ。
本当に、もう何も思い煩う必要はなくなった。
「やっと元気になったんだね。もう、心配かけないでよ!」
私が急におかしくなったように笑い出すと、彼もまた苦笑とも含み笑いともつかない笑みを浮かべて一緒に笑ってくれた。
マヅチが快復したという確かな現実に、私の精神は高揚してやまなかった。きっとそれまで不安に心を蝕まれていた反動なのだろう。あまりにも嬉しくて、私は頭の片隅でレンジュがいないことに気付きながらも、そのことを気にも留めなかった。きっと、トイレにでも行っているのだろう、と。
私は久しぶりにマヅチと森を歩いた。数え切れないほどの往来を繰り返した道でも、彼が隣を歩いているというだけで新鮮な喜びを享受できた。どうしてもその喜びを表現したくなって、気付いたら私は彼の手を取って走り出していた。
「おいおい、イサナ。さすがにそのはしゃぎようは園児並みだぞ。あと、俺は病み上がりなんだから、もうちょっと気を遣ってくれ」
私はクスクスと笑い出して早歩きまで速度を落とした。何だか今日は、目を覚ましてからずっと笑い続けている気がする。
「マヅチが元気なら、私は四歳の園児になってもいいもん!」
振り返ると、マヅチは保護者が遊び回る子供を見守るような目で私を見ていた。
「あ、そんな目で見るなあ!」
彼は私の反応に苦笑を漏らした。
「まあ、元気がないよりは、はしゃぎすぎる方がいいか」
「元気がなかったのはマヅチでしょ!」
彼は私のツッコミに自嘲気味に笑いながら「それもそうだ」と認めた。
私はマヅチを倒木のある空き地に連れていき、木陰で腰を下ろして彼の好物のランブータンの実を一緒に頬張った。
熱帯の強烈な光線に目を眩ませながら、小風になびく髪を耳にかける。懐かしい感情が私の脳裏に去来した。
確か、島に漂着してすぐの頃にも、こうしてここでまったりとランブータンを堪能したことがあった。あの時はレンジュもいたはずだ。
明日はレンジュと三人でもう一回来よう。
「あっ!」
私は空を見上げて気付いた。
「どうかしたか、イサナ?」
「もうこんな時間!」
太陽はもう天頂に達しようとしていた。楽しい時ほど時間が早く過ぎるというのは、私たち人間には少し残酷な真理だ。
「早くお昼ご飯を調達して戻らなきゃ! レンジュが待ってるかもしれないよ」
私たちは慌てて昼食用の果実を三人分掻き集めた。
だが、息を切らして舞い戻ってきた私たちの労苦を嘲笑うかのように、拠点は閑散としていた。その白々しさは、私たちの興奮をゆっくりと冷ましていった。
「レンジュのトイレ、長いね……」
私が言うと、マヅチは怪訝そうな横顔で「そうだな」と答えた。
「夜になっても戻ってこなかったら、明日手分けして探そう」
「うん……」
翌日、マヅチのこの提案は現実となった。




