その後番外編:悪役だって恋がしたい!
無駄に頑丈な拘束をなんとか解いて彼女を追えば、とっくに宿を引き払い、街を出た後だった。
「マジかよ……」
ガンガンと痛む頭は、二日酔いか心労からか。呻いてうずくまる男を宿の主人が迷惑そうに見てくるが、構ってなどいられない。
「どうする俺、このままガチで手ぶらで帰ったら、ラインヴァルトの奴の二の舞じゃねえか……っ」
ムスタファ・テュルク、と自分の名を呼ぶ閣下の幻聴さえ聞こえてくる。ラインヴァルトの奴はあの少女然とした顔に嘲笑を浮かべることだろう。
あれだけ大口叩いて出て行ったクセにあっさり酔いつぶされ、追って来られないようにガチガチに拘束されとっとと逃げられたのだ。正面から決闘――と書いて求婚と読む――を申し込み、コテンパンにやられて帰ってきたラインヴァルトの情けない姿に腹を抱えたことは記憶に新しい。
(いや、いっそ爆笑されるならまだ救いがある)
最悪なのは――そして恐らくはそうなるのだが――同情されること。ああやっぱりな、お前もこちら側だよなと、憐れみを持って迎え入れられることが一番キツい。普段は容赦のない閣下ですら、こと叶いそうもない片想いに身を焦がす人間にはちょびっとだけ優しくなるのも嫌だ。あんなオッサンに優しくされても嬉しくもなんともない。
「俺は遊びなんかじゃなかったのに……マグダ……」
なんなら指輪どころか新居も買って新婚休暇の申請書類だってバッチリだ。子どもは最低でも男女ひとりずつほしい。とはいえ子は授かりもの。夫婦ふたりで老後暮らす資金だって積み立て始めている。
(まあそりゃ、きっかけこそ王女殿下のために外廷の情報を欲したマグダと、閣下のために王女殿下の情報が欲しかった俺の利害の一致ではあったけど……そんでもってマグダには似たような情報源が俺以外にもいるっぽかったけど……!)
それでも一応、便宜上、ふたりは恋人同士であったのだ。世間体のための建前だとか、そんな事情はあったとはいえ、ひと通り恋人らしいことはしてきたし、少なくとも、想い人に毛嫌いされて逃げ回られている閣下や、まるきり子ども扱いで名前すら覚えてもらっているか怪しいラインヴァルトとは違う。……違うはず、だったのだ。
「マグダぁ……」
愛しい人の名前を呼んでも、返る声などついぞなかった。
ムスタファ・テュルクは王国では珍しい、東方からの移民である。
とはいえ、家族の記憶があるわけではない。
この辺りでは見かけない浅黒い肌、一般的な王国民よりも筋肉のつきにくい長躯に黒褐色の髪と瞳を見て、恐らく東方南部、トゥグイ共和国にルーツを持つのだろうと、閣下が推測しただけのことだ。
トゥグイと言えば、帝国弱体化の原因ともなった、因縁の大国である。帝国の辺境伯領であったこの王国で、そのような容姿を持つムスタファに向けられる目は厳しい。遥かな祖国どころか、両親の顔すら知らぬ孤児出身というのに、なんとも理不尽なことである。
にも関わらずムスタファが曲りなりにも王国中枢、文官として王宮に伺候し、あまつさえつい先日戴冠したばかりの新王に政事の何たるかを教導しているのだから、なんともはや、やはり閣下様様である。
「それでは、本日はこれにて」
「ああ。伯父上にもよろしく」
気だるげに瞬く新王陛下は、周囲の思惑とは裏腹に、閣下――メデルゼルク公爵を頼りにしていることを隠さない。
(一度は殺されかけておきながら、酔狂なもんだ)
もっとも、閣下の手先であるムスタファが言えたことでもないのだが。
先王陛下の予期せぬ崩御から、未だ半年。王宮はまだまだ騒がしい。
通例、喪が明けるまでは延期するはずの新王の戴冠は、帝国で帝位争いが勃発したことを受けて早められた。
戦時にはよくあったことと、その時はまだ引退前であった先代ガル公爵が珍しくメデルゼルク公爵に同意し、どうにか国としての体裁を取り繕った形だ。宮廷雀たちはいったいどの家が王妃を出すかとしきりにさえずっているが、大公女が客人として居座っている現状、王妃選びは水面下で留まっている。
息をひそめ、じっとこちらを窺う視線を感じ、ムスタファは機嫌よく鼻を鳴らした。
先王の時代、メデルゼルク公爵は確かに王の相談役ではあったが、正式に実権を握っているわけではなかった。先代メデルゼルク公爵が、先王の父、二代前の国王と結託し、無謀な戦を繰り返していたことを、先王が厭ったからだ。先々代国王、並びに先代公爵らの影響を宮廷から排除するのに必死で、先王は自らの支持基盤である当代メデルゼルク公爵の力をも削いでいた。その結果が、弱体化した王権というわけだ。
ところが新王は先代と意見を異にするらしい。メデルゼルク公爵を公然と伯父上と呼び、宰相の地位に就け、寵愛を隠さない。メデルゼルク公爵もそれに応え、王権の強化に乗り出している。
王権の強化とは、翻せば貴族らの弱体化だ。当然反発は大きく、新王周りは色々な意味で騒がしい。僅かでも証拠を残せば、メデルゼルク公爵は容赦なくその背後までたどり、更迭し刑に処す。公爵の地位だからこそ許される、精強な私兵らの活躍あってのことだ。
そうして歯抜けのように空いた地位に、ムスタファのように有能だが血筋やコネ、その他諸々の事情でくすぶっていた連中が次々放り込まれ、また宮廷内で衝突が起こる。ムスタファなどは妬み嫉みの類すら楽しむ人間なのでさして苦に感じることはないが、似たような事情で昇進した同僚など、毎日死にそうな顔で腹をさすっている者もいる。嘆かわしいことである。
「戻りました、閣下」
「ご苦労」
――ムスタファの来歴を、説明することは難しくない。
閣下こと、メデルゼルク公爵に拾われ、文官となった。悪徳の誉れを戴くメデルゼルク公爵のことなので、もちろん善行ではない。彼は駒が欲しかったのだ。
もうひとりの駒、年若く清廉な騎士殿が、入室してきたムスタファを見て眉を顰める。
「おや、これはこれは。ラインヴァルト騎士伯ではありませんか。本日はいったい、閣下に何のご用件で?」
「……道化た振る舞いは止めてください。僕は冗談を楽しめる人間ではないので」
「これは失礼」
実直なことだ。噂に違わぬ堅物ぶりに、自然、口角が上がる。
騎士伯とは本来、一代限りの称号だ。王国騎士団に入団し一定期間勤めるか、何らかの戦功をあげることで叙爵される。ラインヴァルト騎士伯のように先祖代々騎士伯を叙爵されているような家系は非常に稀である。
稀であるということは、それだけ名家ということである。名門出身のお坊ちゃんだが、メデルゼルク公爵がわざわざ駒に引き入れたということは、名ばかりではないのだろう。もっとも、閣下にとってはもうひとつの事情の方をこそ重視した可能性もあるが。
とん、とメデルゼルク公爵が執務机を指で叩く。
途端、背を伸ばし体を向けたふたりに、公爵は鷹揚に頷いた。
「我が姫は今、ちょうどマルスの街にいるそうだ」
「……進路を変えられましたね。僕が伺った時は、そのまま西進してメロウの街に行くと仰っていましたが」
ムスタファに先んじて、許嫁でもあり姫君の護衛騎士でもあるエリザに会いに行ったラインヴァルトが、意外そうに口にする。
ラインヴァルトが追いついた時に姫君一行が滞在していたのは王都から西に伸びる街道沿いの街だった。対して、マルスはいくらか東に戻り、南に伸びる街道を辿った先にある。
何かあったのではと気を揉む少年騎士に、公爵はそうではないと首を振る。
「帝国の争いの話が耳に入ったらしい。姫はともかく、乳姉妹殿が強固に反対したのだろう」
「マグダらしい」
恋しい人の話題に、自然、ムスタファの表情が緩む。
ラインヴァルトと違い、ムスタファとマグダの間に約束らしいものは何もない。離宮に軟禁されていた姫君のため、外廷の情報を欲していたマグダと、姫君の様子を知りたがった公爵の命を受けたムスタファの利害が一致しただけの関係だった。
お互い、はっきりと本当の目的を口にしたことこそないが、外聞の良いように偽りの恋人関係を続けていた。ムスタファがその容貌から出世の見込みが一切なく、そのため身軽に色々な部署をたらいまわしにされていたことも、彼女にとっては都合が良かったのだろう。
だというのに、マグダには自分以外にも情報源がいるとわかっていても、ムスタファの方はすっかり惚れこんでしまったのだからしようがない。しかもその恋心を見込まれて本格的にメデルゼルク公爵の駒になったのだから、さらに始末に負えないのだ。
「さて、それでは次は、俺の番ですね。閣下」
「そのための休暇だろう。幸運を祈る」
公爵は微笑む。彼にしては珍しい、何の含みもない言葉に、ムスタファはもちろんと頷いた。
メデルゼルク公爵、ラインヴァルト騎士伯、テュルク宮廷伯。何も知らぬ宮廷雀たちは、この異色な組み合わせに首を傾げることだろう。その内実が、遍歴する王女殿下と彼女の側近たちに想いを寄せる男たちである、などと、真実を聞かされたところで信じまい。
王女殿下は現在、三人という非常に少人数での旅を続けている。随行するのが護衛騎士のエリザと侍女マグダ、彼女らふたりだからこそ可能なことだ。だが、逆に言えば、彼女らふたりのどちらかが欠ければ、王女はもうそれ以上旅を続けられない、ということでもある。
折に触れご機嫌伺いに訪れる公爵が、王女の説得に成功すればそれでよし。ラインヴァルトが騎士同士の求婚作法通り、護衛騎士エリザに決闘で勝利するもよし、ムスタファのマグダへの求婚が成功するでもよし。
公爵もムスタファも、合理性を重んじる。ラインヴァルトは多少抵抗があるようだが、幼い頃から一途に想いを寄せる相手である許嫁が王都に帰って来てくれるのであればと、この奇妙な協力関係を受け容れている。
だがムスタファは、間違っても閣下やラインヴァルト本人には言えないが、勝算があった。この三人の中で唯一、想い人とかつて偽りとはいえ恋人関係にあったからだ。
口づけすら交わしたことがないんだなと思えば、ラインヴァルトの憮然とした表情も微笑ましく思えてくる。恋しい人と過ごす夜のすばらしさを閣下も早く知ることができればよいのにと、心から応援する気持ちが生じた。
勝算はある。指輪も新居も、すべてマグダ好みのものを揃えた。結婚後も侍女として王女殿下に仕えたいならもちろん協力する。きっと乳姉妹であるマグダの説得なら、王女殿下も公爵のことを見直してくれるだろう。その時は、ラインヴァルトのことをエリザとかいう騎士に取りなしてもいい。せめて名前くらいは覚えてもらえないと、流石に哀れだ。
上機嫌で出立の準備に取りかかるムスタファを、ラインヴァルトは呆れ顔で見送った。
「……あの男ほど楽天家な人間を、僕は見たことがないです」
「ヒトは変わるものだ。かつて、自分以外すべてを憎んだ子どもであったとしても」
吉報をお待ちください、と言い残したムスタファを思い出し、ラインヴァルトは嘆息する。
さていったい、どんな顔をして帰ってくることやら。