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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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35話 願い

 太ももの筋肉がちぎれそうなほど悲鳴を上げているはずなのに、感覚はとうに麻痺していた。

 ただ、肺が冷たい空気を求めて激しく上下する音だけが、静まり返った山道に響く。

 石畳の上を這うようにして、一歩、また一歩と足を進める。

 夕闇が、急速に世界を黒く塗りつぶそうとしていた。

 そして、(やぐら)のような作りの展望台が目に入った。俺は迷うことなく階段を登っていく。

 そして最後の一段を登り終えた時。

 瀬戸内海とこの島が一望できるその場所に、彼女はいた。

 思わず息を呑んだ。夕日の最後の残光を浴びて佇む彼女の身体は、驚くほど透き通っていた。向こう側にある海の水平線が、彼女の胸のあたりをまっすぐに透過している。

 彼女は、俺の足音に気がつくとゆっくりと振り返った。その顔に怒りはなく、ただ、ひどく困ったような、でもわずかに笑みを浮かべている、そんな顔だった。

「……どうして来たの」

「ごめん。俺が全部悪かった、絵も全部、直した」

 そう言って、メンディングテープで貼り付けて直した七枚の絵を取り出した。

 すると彼女は一瞬、驚いたように目を見開く。そして、ゆっくりと首を振った。

「ううん……もういいの。取引も、終わりにしたでしょ」

 そう言って、彼女は顔を伏せた。いつか見た時のように、その表情は影になっていて見えない。

「……俺、自分の感情を優先したせいで、お前の願いを無視してた。勝手に自分の中で消えなければ幸せなんだって、絵なんか描かずに俺がちゃんと見ればいいんだって、そう思ってた」

「…………」

「でも、違った。俺は全然『ちゃんと』見れてなかった。お前の本当の願いを見ないふりしていたんだ」

 ——俺は最初、ただ彼女が描かせたい場所を俺に描かせているだけだと思っていた。

 でも、それは多分違う。

 写真じゃ切り取れない、その景色を見た人が残したいと思ったもの。

 その時まで語り継がれてきた伝承。

 観光地としてあまり見られない場所の跡。

 人々が暮らしてきた証。

 それらを俺に見せて、俺が感じ取ったものを自分の中で整理して、形にすると言う行為そのものが大事だったんだ。

「だから、今度はちゃんと描く。俺は逃げない」

「…………私、自分でも願いってなんなのかよく分かってなかったんだ」

 予想外の言葉と共に彼女は語り始めた。

「この島を見てもらうことが私の願いなんだろうけど、形になって残るのが大事なのかどうか、わかんなかった」

 彼女は雨の神社で、形になって残ることに対して『わかんない』と言っていた。

 俺はそれを無視して絵を破いた。今思えば、なんて独りよがりで最低だったんだと思う。

「それでもね……やっぱり寂しかったんだ、ただ見て終わるっていうのは」

「それで、俺に絵を描いてほしいって言ったのか」

「うん。だから絵を破ったって分かった時はすごく悲しかった。なんで私の願いをわかった気になってるんだろうって」

 俺は思わず言葉に詰まった。

「それは……ごめん」

「でも、君が今日ここに来てくれてよかった。私も千冬に会えてやっと『ちゃんと見る』ってどういうことかわかった気がする」

 彼女はそう言って、女木島を上から見下ろした。風が横顔を撫でている。

「…………なぁ」

「なに?」

 俺が声をかけるとゆっくりと彼女は振り返った。

「取引をしないか」

「え……?」

「前にここで結んだ取引は俺が壊してしまった。だから今度は新しい取引をしよう」

「……」

「俺が君を描くから——君の名前を教えてくれ」

 彼女は驚いたように目を見開いてから、考えるようにじっと俺を見つめた。

 そしてふっと口元が緩んで、言葉が出てきた。

「…………わかった。約束だよ?」

「あぁ、任せてくれ」

 そう言うと、彼女は今日、ふふっと初めて笑った。

 そして、瀬戸内海とタカト山の尾根、そして女木島の街並みと高松の夜景が同時に見える画角で、彼女は後ろで小さく手を組んで立った。

 俺は鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出して、描いていく。

 いつもは横で描いていたが、今日は縦で、彼女の肖像画を描く。

 すでに体全体が透けていて、昇ってきた月光がまばらに彼女を通過していく。

 俺はその姿を目に焼き付けながら、画用紙の上にさらさらと線を走らせていった。

「前見せた、女木島が赤く塗られてた絵、あるだろ」

 俺は絶え間なく手を動かしながら聞いた。

「うん」

「あれ描いたの、多分俺のおじいちゃんなんだ」

 そう告げても、彼女は特に驚く様子もなくただじっと耳を傾けていた。

「……」

「この島出身だって最近わかってさ。それで多分、何かを伝えようとして描いたんだと思う」

「……取引が」

「え?」

「前の取引は途中で終わっちゃったから、私はあの絵については何も言えない」

 彼女は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。

「……」

「でも、私の今までの記憶なら語れるよ」

 予想外の言葉に一瞬手が止まるが、すぐに持ち直して線を引いていく。

「……例えば?」

「昔、君みたいに絵を描く子がいたんだ」

 彼女は懐かしむように語り始めた。

「それで私は頼んだの。この島を描いてって」

「……その子は描いてくれたのか?」

「うん。何枚か描いてくれたんだけど、ある日私の体が透けてることに気がついたの。それで、その子は描かなくなった」

「……」

「多分、怖くなったのかな。それとも君みたいに私を消したくなかったのかな」

 彼女はとても切ない笑顔を浮かべた。

「その子は、中学校を卒業して、高松に行っちゃった」

「それで……どうなったんだよ」

「私の体はそれからずっと透けたままだった。でも、十年前くらいにまた元に戻ったんだ」

「それって……」

 十年前というと、ちょうど祖父が亡くなった時だ。もしかして、と思って彼女を見ると、彼女の目は潤んで少し赤くなっているような気がした。けれど、それはすぐに元に戻った。

「…………ほら、手が止まってるよ」

「……ごめん」

 気付かぬうちに止まっていた鉛筆を、再び動かし始める。線で形を取り終えると、俺は先の細い水筆を手に取った。

 視線を向けると、彼女の赤みがかった髪は、夜の闇に浸されて深い紫色に沈んでいた。

 だが、その色彩さえも、少しずつ淡く、透き通り始めている。

 俺はパレットの上で夜の群青を練り上げ、急ぐように筆を走らせた。

 空の藍色に、さらに深い瀬戸内の海の色を重ねていく。月光のきらめきは、あえて塗らずに残した紙の白さで表現した。

「ねぇ」

 不意に声をかけられて、弾かれたように顔を上げる。

 彼女はいつもと変わらない様子で佇んでいた。けれど、その輪郭は少しずつ夜空の闇へ溶け出し、曖昧になっていく。

「なんだ」

「初めて会った日、覚えてる?」

「……神社か?」

「うん」

 彼女はくすっと悪戯っぽく笑った。

「最初は変な人だと思った」

「なんでだよ」

「だって、あんなくたくたになって座り込んでさ。観光客じゃないって言うんだもん」

「……まぁ、やることもなかったしな」

 俺は急き立てられるように視線をスケッチブックへ戻し、筆を動かす。

「これから先……しんろ?に迷ってるって、言ってたよね」

「あぁ」

「今も、迷ってる?」

 静かな夜風に乗って、彼女の声がまっすぐ鼓膜に届いた。

「……いや、もう迷ってない。おかげさまでな」

「そっか。じゃあ、色々連れ回した甲斐があったなー」

「めちゃくちゃ大変だったけどな」

 俺が恨みがましく言うと、彼女はふふっと肩を揺らした。

「また出た、運動不足」

「うるせぇよ」

 俺は再び顔を上げ、彼女を見つめる。

 さっきよりも、さらに背景が透けて見えるようになっていた。

 早く、早く描き留めなければ。

 君が、ここにいた証として。

 俺がちゃんと見た証として。

 焦燥感が右手をじわりと震わせる。

「……千冬ってさ」

「……なに」

「なんで、あの絵を破ったの?」

「いや、だから、お前が消えないようにって──」

「そうじゃなくって。なんで、私が消えちゃだめだったの?」

「それ……は……」

 俺は言葉に詰まった。

 もし事前に彼女の願いを知っていたとしても、やはり俺は絵を破っていただろう。自分でもそう確信している。

 では、なぜそこまで固執したのか。

 その理由を自ら言語化するのは、あまりにも身勝手で、後ろめたくて、心(やま)しい気がした。

 けれど、それを自覚すればするほど、胸の奥から熱い衝動が突き上げてくる。

「もしかして、私のこと好きだった?」

 不意に投げかけられた言葉に手元が狂い、紙の上の白いシャツへ、夜の女木島の街並みがじわりと滲み出してしまう。

「はぁ!? ち、ちが……っ!」

 慌てて否定しようと顔を上げると、彼女の左肩はすでに夜の闇と同化して消えていた。

 それだけでなく、全身の端から境界を失い、崩れ始めている。

「っ…………」

 俺は何も言えなかった。

 代わりにからかわれた気羞しさなのか、彼女が消えゆくことへの悲しみなのか、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情のせいで、顔が痛いほど熱くなった。

「……私はね、好きだよ。千冬のこと」

 一瞬、世界がぐらりと揺れた。

「もちろん、この島と同じくらいね!」

 彼女は悪戯っぽく口元を緩めて笑う。

 でも、少しだけ頬が赤くなったように見えた気がした。

「なっ……なんだよ、それ……」

 いつものように素っ気なく返したかったが、喉が震えて言葉がうまく紡げない。

 それでも、手元の筆だけは、執念のように着実に完成へと向かっていた。

 彼女の髪、額、睫毛、鼻筋、そして唇。

 ずっと見つめてきた彼女の姿がそこにあった。

 神社の境内で、いつも手を振ってくれた笑顔。

 山道を進みながら、俺を振り返ってからかった時の表情。

 絵を破ったときに、激しく怒らせてしまったあの顔。

 ——そして、嬉しそうに涙を流している、いまの顔。

「ねぇ、千冬。この島のこと、ちゃんと見れた?」

「……あぁ、見れたよ」

「……私のことも、ちゃんと見てくれた?」

「あぁ、もう嫌になるほどな」

 俺はそう言って、頬を伝う熱いものを無視し、無理やり笑ってみせた。

「そっか……よかった」

 もう、目を凝らさなければ背景の夜景と区別がつかないほど、彼女は薄くなっている。それでも、ただ愛おしそうに微笑み、じっと俺を見つめていた。

 水彩の絵の具が涙で滲んでしまわないよう、乱暴に袖で目元を拭う。そして、最後に月光が彼女の髪を照らすハイライトを白く描き込んだ。

「よし……できた」

 最後の筆を離し、顔を上げる。

 一瞬、強い風が吹き抜けた。

 それに揺れる赤みがかった髪は、視界にない。

 ──そこにはもう、誰もいなかった。

「……なぁ」

「……絵、描けたぞ」

 虚空に向けられた呟きは、そのまま夜空の闇へと吸い込まれていく。展望台を取り囲む木々の葉が、夜風にさらさらと擦れ合う音だけが耳に残った。

「絵の感想……言ってくれないと、わからないだろ……」

 こらえきれずに溢れた涙が、足元の木板に小さなシミを作っていく。

 そのうちの一滴が、完成したばかりの絵の上にぽつりと落ちた。背景の深い群青に溶け込み、切なく滲む。

 その時だった。

 背後から、ふわりと包み込まれるような気配がした。

「あかね。私の、昔の名前。忘れないでね」

 耳元で囁かれた優しく切ない声とともに、その温もりはすぐに霧のように霧散した。

 あの日、境内で交わした指切り。

 そのときと全く同じ、確かな温かさを胸に抱きしめながら、俺はただ、静かに目を閉じた。

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