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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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34話 もう一度

 朝の光が部屋に差し込む中、俺は画材を鞄に詰め込んでいた。スマホの時計を見ると、時刻は午前七時。

 今日こそ朝一番のフェリーに乗って女木島に行って、彼女の願いを叶える。

 そのために、あの日床に放り投げた鞄をもう一度手に取った。

 そして、最後にいつものスケッチブックと、八枚の絵が挟まったクリアファイルを滑り込ませた。

 ——観音寺に天空の鳥居を見に行った日の帰り、光が俺を家の前まで送ってくれたと思ったら、ずかずかと部屋の中まで入ってきた。

 あいつは散らかった室内を一瞥するなり、すぐに床へしゃがみ込んだ。

「ちょ、おい何してんだよ」

「何って、見たらわからない?集めてんの」

 光の手には、俺が引きちぎった絵の破片が握られていた。

「集めてどうすんだ」

「メンディングテープでくっつけて、直す」

「直すって言ったって、こんなに散らばってちゃ……」

「よく見ろよ」

 促されて、床に散らばった白い紙片をもう一度凝視する。

 感情に任せて破いたそれは、大小様々な大きさで落ちていて、シュレッダーにかけたみたいに全てが細かくなっているわけではなかった。むしろ、繋ぎ合わせようと思えば繋ぎ合わせられそうな、そんな形だった。

「な?だから言っただろ、お前は雑だって」

「……そうかもな」

 俺もしゃがんで、床からその破片を拾い集めた。

 机の上に広げて、パズルのように隙間を埋めていった破片は、少し歪な線を描きながらも、確かに一枚の風景画へと戻った——。

 朝の港は、観光客というより地元の人たちの利用が多かった。島から高松に通勤する人もいれば、用事があってこっちに来る人もいる。

 ぞろぞろと降りてくる人たちの波と入れ替わるように、フェリーへ乗り込んだ。

 とても久しぶりに感じる甲板の上の海風は、青空へまっすぐ吹き抜けていった。目の前に迫る島が、やけに大きく見える。

 高松港がゆっくりと遠ざかり、白く泡立つ航跡が海に一本の線を引いていく。

 俺はベンチには座らず、甲板の欄干に身を預けたまま、近づいてくる緑の島をただ見つめていた。

 鞄の重みが肩にずっしりとくい込む。

 あの日、俺は彼女を失う恐怖から逃げ出し、絵を破ることで全てを無かったことにしようとした。でも、光が繋ぎ直してくれた境界線を見て、俺は思い知った。

 破片になってもなお、あの島で彼女と過ごした時間は、俺の心に生々しく残り続けている。

 昨日、図書館の薄暗い郷土資料室で手繰り寄せた、島の記憶が脳裏をよぎる。

 一九一四年、あの山頂で大洞窟が見つかり、おとぎ話の「鬼ヶ島」として結びつけられたこと。一九三〇年代、レトロなポスターに誘われ、大勢の観光客が押し寄せたこと。

 そして一九五八年。おじいちゃんはあの島の中学校の最後の卒業生として、島を去った。

 祖父のスケッチブックを思い出す。日本中が高度経済成長の狂騒へと足を踏み入れ、古い伝統や名もない歴史が古臭いものとしてなおざりにされていった時。

 おじいちゃんはその時に、女木島を見て、絵を描いた。

 ……でも、日付は途絶えていた。

 俺は、その理由を知らなければいけない。

 今度こそ逃げずに、取引を成立させることによって。

 ふと気づけば、フェリーは港に滑り込んでいた。

 俺はゆっくりと欄干から身を離し、鞄を肩にかけ直して、客室の階段を降りた。

 自転車を押してフェリーを降りると、まばらな観光客はまた、いつものようにそれぞれの目的地へと散って行ってしまう。

 俺も、自転車に跨ってペダルを踏んだ。

 細い路地。

 古い石垣。

 畑。

 畦道。

 それらの風景を網膜に焼き付けながら、鳥居の下へ辿り着いた。

 自転車を降りてスタンドを立てたとき、気付かぬうちに両手が小刻みに震えていたことに気がつく。

 彼女に、どんな顔をして会えばいいのだろうか。

 今更そんな悩みが浮かび上がってきて、大きく頭を振る。

 違う。

 俺がやるべきなのは、彼女の願いを、今度こそ真っ直ぐ受け止めることだけだ。

 俺は意を決して、境内に続く石段を上った。

 そして、目の前にはいつものように拝殿前に座る彼女が────────いなかった。

 境内を見渡しても、静まり返っていて人の姿はない。

 ただ、耳を圧するような蝉の声だけがミンミンと響いている。

「え……」

 その瞬間に、どす黒く嫌な考えが頭をよぎった。

 もしかして、彼女はもう──。

 もう一度激しく頭を振った。

 いや、彼女はきっと必ずどこかにいるはずだ。

 そうだ、いつもここにいるとは限らない。俺が勝手に思い込んでいただけだ。

 どこか別の場所にいるかもしれない。

 気づけば俺は走り出していた。

 

 ——それからどのくらい経っただろうか。

 いつもの神社。獣道みたいな洞窟までの道。暗い洞窟の中。展望台。海浜広場。俵石。反対側の港。タカト山。集落の路地。

 がむしゃらに島中を駆け巡るうち、途中で激痛が走ったはずの左足の感覚は、いつの間にか麻痺して消えていた。最初は頭からダラダラと湧き出していたはずの汗も、なぜか冷たく引いている。

 代わりに、肺の奥からせり上がる息だけが、喉を鳴らすほど荒れていた。

 どこを探しても、あいつがいない。

 もう、太陽は山の端に落ちかけていた。

 俺はおぼつかない足取りで、最初の上り口だった神社へともう一度向かった。

 あわよくば、またいつものように拝殿前の軒先に座っててほしい。「遅いよ」って、俺が来たら笑って手を振ってほしい。すがるような思いで鳥居をくぐった。

 だが、そこにはやはり、誰もいなかった。

 夕闇の迫る境内に、妙に湿った生ぬるい風が吹き抜ける。

 ひぐらしの鳴き声が、葉の擦れる音に混ざって、鼓膜の奥で不快な耳鳴りのように響いていた。

 俺はとぼとぼと歩き、拝殿前の軒先に腰を下ろした。

 いつも、彼女が座っていた場所。

 急激に脱力感が襲ってきて、何も、する気が起きなくなった。

 彼女は、もう俺に会いたくはないのだろうか。絵を破った俺を、もう拒絶しているのだろうか。

 それとも、もう、全てが遅すぎたのだろうか。

 汗ばんだシャツが風に煽られ、体温が奪われていく感覚だけが鮮明だった。

 その他は、何も感じない。

 そう思った時だった。左の太ももに、ふにゃりと柔らかい何かが当たる感触がした。

 見下ろすと、初めてここに来た時にいた、あの猫だった。

 体を俺のジーンズにすり寄せるような態度を取ったかと思えば、たったっと軽やかに段差を駆け降りて行って、ピタッと立ち止まり、振り返ってこちらを見た。

 しばらく見つめ合っていたが、その猫はさらに数歩前に進み、また振り返って俺をじっと見た。まるで行き先を指示しているかのように。

「…………」

 俺は何も言わずに立ち上がった。その瞬間、膝の力が抜けてよろめきそうになるが、なんとか柱に手をついて姿勢を立て直す。

 猫はそれを見届けてから、また前を向いた。俺の遅い歩幅に合わせるように、ゆっくりと先を歩いていく。

 俺は誘われるように、その後について行った。

 やがて猫は、薄暗いあの獣道に入って行った。俺もそれに続いて踏み入る。

 夕暮れの山の中は、もう日が沈み切ったように暗かった。視界が効かない分、時折足元でカサカサと鳴る草木の動く音が不気味に、大きく響いた。

 やがて山を抜け、見覚えのある洞窟の駐車場に出た。猫は迷いのない足取りで石段を上り、黒い空間が広がる洞窟の入り口の前で立ち止まった。

 俺は洞窟の奥へと視線を向けた。

 もうすでに本日の営業は終わっていて、人の気配は全くない。洞窟内の照明も完全に消されているのか、数メートル先はもう濃い闇に切り取られて何も見えなかった。

 役目を終えたというように、猫は急にたたっと走って、近くの茂みへと姿を消した。俺はその場に呆然と立ち尽くす。

「ここに、いるのか……」

 そう呟いて、闇の広がる洞窟の方へと足を踏み出そうとした。

 だが。

 胸のあたりが、嫌な風にざわついて、すぐに踏み出す足を止めた。

 違う。

 ここではない気がする。

 確証なんてない。論理的な根拠もない。

 あるのは、ただ、この島と自分の直感だけだ。

 俺は、さらに上へと続く展望台への道を見上げた。

 初めてあいつに頼まれて絵を描いた、あの展望台。

 そして、取引を交わした場所。

 ふうっと息を吐いて力強く足を踏み出した。洞窟の入り口ではなく、夕闇に染まる展望台への坂道へと。

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