31話 Tシャツ
「…………なぁ、なんで今日ここに来たんだ?」
沈黙を破って尋ねると、光は特に視線を動かさないまま答えた。
「別に、深い意味はねえよ」
「浅い意味ならあるんだろ?」
「まぁな」
「なんだよ」
「結局、あの絵がどうなったか聞こうと思ってな」
光は、特に言い淀む様子もなく、あっけらかんとした口調で言った。
「…………わからない」
「わからないってなんだよ」
「そのままの意味だよ。あの絵のことについては、何も」
「じゃあなんで連絡無視してたんだよ」
一番痛いところを突かれて、喉が詰まる。
「それは…………ちょっと色々あったからだよ」
「色々とは?」
「色々は、色々だよ」
「だからそれを教えろって」
しつこく食い下がってくる光に一瞬苛立ちを覚えたが、それがただの八つ当たりだとすぐに自覚して、大きなため息となって消えた。
「前に女の子と会ったって話、しただろ」
「言ってたな」
「それで……その子とちょっと喧嘩……っていうか、まぁ俺が一方的に悪いのかもしれないけど……」
「……要するに、フラれたってわけね」
「ちげぇよ!」
「じゃあ何?」
「だから……俺が絵を描くことを,、その子が望んでて、でも絵を描いたらその子が消え……いや、彼女がすり減ることになって……」
「それで?」
「俺は怖くなって、描いた絵を破った。そうすれば、彼女がそこにいてくれると思ったから」
「…………」
光はしばらく黙っていた。そして、街並みを見下ろしながらぽつりと呟いた。
「驚いたな」
「え?」
「いや、お前が授業以外で絵を描くなんて珍しいと思って」
「……約束したから、仕方なくな」
「それでもだよ。前は絵なんか描かなくても写真でいいって言ってたし」
俺は思わず目を逸らした。
彼女と会う前までは、絵を描くなら写真を撮ればいいと思っていた。
でも、彼女に振り回されて絵を描いていく中で、絵に落とし込む時のあの気持ちと、それを見た彼女の笑顔が、心に焼き付いて、離れない。
──だが、それも、全て意味がなかった。
『そう、かもね』
淋しそうに呟く彼女の顔が、フラッシュバックする。
例え写真に映らないものを絵に描いても、どれだけ想っても、彼女がいなければ、意味がない。
「…………でも消えちゃ、意味がないだろ」
「は?」
「あいつがいなかったら、絵になんか意味はないんだよ!」
「……」
俺がそう叫ぶと、光は驚いたように目を見開くが、すぐに顔を伏せた。そして、小さく肩を揺らした。
「……くくっ……」
「……は?」
「っははは!なんだよそれ!」
光は口を開けて、今にもベンチから転がり落ちそうなくらい大笑いし始めた。俺はその姿にただ呆気に取られる。
「は、はぁ?なんで笑うんだよ」
「いや、急に何を言い出すのかと思ったら、どう考えてもおかしいだろ、それ」
「……どこがだよ」
光は、ひーひーと言いながら、笑いすぎて目元に浮かんだ涙を指先で拭った。
「だって、お前はその子に頼まれて絵を描いてたんだろ?」
「あぁそうだよ。でも、そうすると彼女がすり減ることになって──」
「それだよ、それ」
「え?」
「いや、俺にはすり減るとかいう言葉の意味はよくわからんけどさ、その子が望んだこととお前がやってることは、真逆なんだよ」
言葉に詰まった。それでも俺はなんとか声を絞り出す。
「い、いや……でも、そうすれば彼女は消えなくてすむし、何より俺が、あいつの願い通り、ちゃんと見れば──」
「それ、その子が本当に言ったのか?」
「……え?」
「お前にそうしてって、言ったのかよ」
光の顔からはすでに笑みは消え失せ、代わりに鋭い視線が俺を貫いた。俺は喉の奥が引き攣ったように声が出なくなった。
「それ……は……」
必死に唇を動かしても、その後に続く言葉なく、力なく抜けていく空気があるだけだった。
『頼んでないって言ってるでしょ!』
彼女のつんざくような声が、頭の中で反響した。
頭痛が急激に大きくなっていく。
「……独りよがりは、やめろよ」
光の容赦ない一言が、俺の胸を強く叩いた。服の上から胸をギュッと押さえて、湧き上がる嗚咽を必死に殺した。
ぽつりと一滴の水がジーンズに垂れてシミをつくったが、これは汗なのか、それとも涙なのか、今の自分では区別がつかなかった。
ただ、自らの浅はかな考えと行動が、ただただ脳内で反響する彼女の声に晒し上げられるようで、胸が張り裂けそうだった。
空気を吸っているはずなのに、息を止められているかのような錯覚に陥る。
俺は大きく息を吸って、呼吸を整えようとした。
「………………ごめん」
そして吐く息と同時に出たのは今にも消え入りそうな声だった。そして、それは光に向けてのものなのか、それとも彼女に向けてのものなのか、自分でもわからなかった。
「…………まーでも、今日ここに来て俺も反省したことがある」
「……何を」
「ネットで見る写真で判断してたこと。大体、こういうところって、人がたくさんいてロープウェイかなんかが設置されてて、誰でも来れるただの『映えスポット』なんだろうなって思ってた」
「……」
「でも、違った。意外と大変だったし、何よりお前はへばってるしで、わかった気になるのはよくないなーと思ったよ」
俺は何も言えなかった。
代わりに、また、彼女の言葉が反響する。
『ちゃんと見て』
——俺は、あの島で何を見てきたんだろうか。
そこにあるはずの、見過ごしちゃいけないはずのものを見て、描いたはずなのに、忘れていた。
一度は捉えていたはずのその景色が、その絵が、俺の彼女を失いたくないという感情ばっかりを優先したせいで崩れ落ちた。
結局、俺は一番大事なはずの彼女の願いを見ていなかった。
じゃあ、本当の彼女の願いはなんなんだろう。
俺に絵を描かせて、形になって残って、でも自分は消えて。
それでも、俺に絵を描かせようとした。
どうしてだ。
「っあー、こんな辛気臭い話ばっかしててもしょうがないしな」
そう言って光はおもむろに立ち上がって境内へと歩いていった。
俺も反射的に立ち上がり、後を追った。
光は少し歩いた先で、黄色い自動販売機の前で立ち止まって財布を開いた。
よく見るとそれは、普通の自動販売機ではなく、御朱印やお守り、鍋の素にうどんなど、多様なご当地グッズが詰め込まれた風変わりなものだった。
「いやー、実はこれが今日の隠された目的だったんだよね」
「え?」
光は千円札二枚を自動販売機の投入口に滑り込ませて、ピッとボタンを押した。
カチャッという音が鳴って、何かが落ちてきた。光はそれを手に取って、包装されていた透明のビニール袋を開封した。そして、両手で持ってそれを広げ、まるで獲った虫を自慢するかのように俺の前に突き出してきた。
「これ!よくね?」
見ると、それは白のTシャツだった。黒色で「TENKU NO TORII」と書かれた横に鳥居のイラストがあり、その下には、天空の鳥居へ続く長い石段を思わせる線が描かれている。さらに「KANONJI」の文字の横には、山や家々、海に浮かぶ船が可愛らしくデフォルメされて並んでいて、その石段の線で鳥居と繋がっているように見えた。
「え……は?これが、目的?」
「あぁ、結構前から気になってたんだよ。なんか珍しい自販機がここにあるって言われてるから」
「…………はぁ」
俺は小さくため息を吐いた。どんな状況でも、こいつのマイペースさは変わらない。
光は満足そうにしばらくそれを眺めて、やがて着ていたTシャツを脱いでそれに着替えた。
それをぼーっと眺めているその時だった。俺の脳裏に、ふと考えがよぎる。
——目的。
彼女の願いは、取引の通り絵を描いてもらうことだと思っていた。
俺が、鬼に隠された女木島の姿を見て、それを絵にして、形にして、彼女に贈る。
そうやって、形にして忘れられないことが、彼女の願いだと、「目的」だと、そう思っていた。
しかし、違う。
目的。
「……………………あ」
その時、またあの声がした。
『ちゃんと見て』
そうだ。
俺はちゃんと見てなかった。
彼女は、俺に「ここを描いて」だとか、「みんなに見せて」だとかは、言ったことがなかった。
ただ、時折ぽつりと漏らす言葉に、妙な説得力があった。それに導かれるように、俺は自分なりの目で女木島を描いた。
それをいつも、彼女は満足そうに笑って眺めていた。
「そうか、目的じゃなかったんだ」
目的じゃなかった。
絵を描いて、鬼ヶ島という名前に隠された女木島を描いた絵を残すことが目的じゃなかった。
それはただの「手段」だったんだ。
俺が、「ちゃんと見て」、目の前の風景をどう絵に落とし込むか。
どんな風に考えたこと、感じたことを形にするか。
その過程が大事だったんだ。
「光!」
俺が呼びかけると、Tシャツを着た姿を自撮りしていた光がこちらを振り向いた。
「え?なに?」
「まじで助かった、ありがとう」
「えっ?あ、あぁ、おお……」
完全に困惑している様子のを置き去りにして、俺は力強い足取りで境内の外へ歩き始めた。
「え、ちょ、行くのかよ、ちょっと待てって!」
彼女は、俺にただ絵を描いて欲しかったわけじゃなかった。
取引を通して、あの約束を通して、俺に「女木島」を気づかせたかったんだ。
なら、俺がやることは一つだ。
もう自分の感情に振り回されて彼女を悲しませるわけにはいかない。
でも、その前に確かめたいことがある。
女木島が紡いできた歴史。そしてあの部屋に積み重なった祖父のスケッチブック。
本当の意味であいつの願いに応えるためには、『ちゃんと見る』ためには、きっと、その過去をちゃんと知っておかなければならない気がする。
──ふと、境内を出る瞬間、今度は脇にある普通の自動販売機が目に入った。学校の三国境にあるものと全く同じ機種だ。
俺はバッグから財布を取り出し、小銭を何枚か投入した。
電子音の直後、ガコンと重い音を立てて転がり出てきたお馴染みのペットボトルを手に取り、蓋を開ける。
「って、またお前それ飲んでんのかよ」
追いついてきた光が呆れたように笑う。
喉を潤していく飲み慣れたその甘さは、今日に限っては、いつもより少しだけ控えめに感じられた。




