30話 レンタサイクル
30話 レンタサイクル
観音寺駅に着くと、少し雲が出てきて太陽の光が遮られていた。それによって気持ちばかり暑さは和らいだような気がしたが、肌に纏わりつくような湿度は相変わらずだ。
「お〜……何気に観音寺って初めて来たかも」
俺は駅舎を出て、見慣れない街並みを見渡しながら呟く。
「そうなん?俺はロードで何回も来たことあるけどな」
「まぁお前はな」
半ば呆れながら言う俺の言葉を聞いたのか聞かなかったのか、光は正面に続く道を指差した。
「この先にレンタサイクルあるから、それ借りよう」
こんな酷暑の中、わざわざ自転車を漕ぐ必要があるのかと疑問に思ったが、とりあえず素直に後ろへ従った。
信号を渡り、小さな川にかかる橋を越えると、玉ねぎをくし切りにしたような形のモニュメントが見えてくる。そのすぐ後ろにある建物が、観光案内所だった。
光は歩幅を緩めずに窓口へと向かう。俺はその背中を見送るように一歩立ち止まり、空を見上げた。
再び雲の隙間から顔を出してきた太陽に手を翳し、ふぅ、と重い溜息を漏らす。
「あ、いや普通のチャリでいいです」
「ん?」
「はい、ありがとうございまーす!」
俺が遅れて追いついたときには、口を挟む間もなく光が手続きを済ませていた。
「ちょ、勝手に進めんなよ」
「え?なんで?」
「いや、だって電動のやつもあんだろ?」
すぐそばに停まっていた、バッテリー付きの自転車を指差す。
そこには電動アシスト付きの新型が四、五台と、至って普通のママチャリが六台ほどずらっと並んでいた。
「だって、電動のやつ高いし」
「はぁ?何円変わるんだよ」
「普通のやつだと二百円、電動だと千円」
「……いやだったら電動の方がいいだろ」
一瞬考え込んだが、八百円の差なら、現代技術の力を借りたほうがどう考えても合理的だ。
「まぁまぁ、もう言っちゃったし。ほら」
光は自転車の鍵をポイっと放り投げてきた。慌ててそれを両手で掴む。彼はさっさと自分のママチャリを引っ張り出して、早くも漕ぎ出していった。
俺は軽く舌打ちをしながら、同じように適当な一台を選んでその後を追った。
——
「はぁっ……はぁっ……」
「ほら頑張れ、あと少しだ」
「うるっせえ自転車馬鹿……」
ペダルを踏み込む足が悲鳴を上げる。容赦のない傾斜の坂道を、俺は必死に駆け上っていた。一方で、とうに上りきっていた光は、励ましているのか煽っているのかわからない薄笑いでこちらを見下ろしている。
「っはぁ〜……マジで死ぬ」
やっとの思いでサドルから腰を下ろす。到着したのは、高屋神社の下宮だった。社務所のような建物の近くに何台か車が停まっており、俺たちもその脇に自転車を割り込ませた。
「おいおい、本番はここからだぞ」
膝に手をついて荒い呼吸を整えていると、横から楽しそうな声で不吉な言葉が降ってくる。
「はぁ……? まだこっから登んの?」
「当たり前だろ、『天空の鳥居』なんだから」
正直もうライフはゼロに近かったが、光の視線の先にある道は、容赦なく真っ直ぐ山の中へと続いていた。
「まぁ……ここまで来たし行くか」
「よっしゃ、早く行こうぜ」
「無理」
ソワソワとしている光を横目に、わざとゆっくりと歩き出す。
ここから先は本格的な山道だ。急いで行って足でも攣ったら目も当てられない。
両脇に木々が並ぶ緩やかな坂を登っていくと、次第に視界が緑に覆われていった。道幅は狭くなり、足元を踏みしめるたびに乾いた落ち葉の音が響く。
十分も歩くと、一直線だった道はいわゆるり 九十九折りのくねくねとした上り坂に変わり、嫌でも山の中に深く迷い込んだことを実感させられた。
ふと、一歩前を行く光の背中が、あの女木島の山道で見つめていた彼女の背中と重なる。
俺はとっさに頭を振って、その残像を振り払った。
今更、あいつのことを思ったってもう遅い。俺は絵を破って、約束も、取引も、すべてを自分から投げ出したんだ。
島に今更行ったって、どんな顔をすればいいのかわからない。いや、そもそも、あいつはまだあそこにいるのかさえ────。
「おっ、『中の宮』だってよ」
光の声にパッと顔を上げる。厳然と佇む鳥居の傍らに石碑が立っていた。
「へぇ。それで、あとどのくらいだ?」
「あとちょっとだろ」
その適当な返答に、頭の奥がちくりと痛んだ。島での山道で、あいつと散々繰り返したあのやり取りが脳内で反響して止まない。
「……信じるぞ」
「大船に乗ったつもりでな。まぁ山だけど」
光のつまらない軽口に、先ほどとは別の頭痛を覚えながら足を動かす。さらに二十分ほど登ったところで、さすがにギブアップを宣言しようとした瞬間、目の前に目も眩むような長い石段が現れた。
思わず視線を垂直に立ち上げると、はるか見上げるような高さに、ネットで見たあの鳥居の頭が覗いている。
「おお!あれか!」
光は完全に興奮した様子で、俺を置き去りにして石段を駆け上がっていった。
俺は深く息を吸い込み、一段ずつ段差を噛みしめるように登る。およそ二七〇段。ようやく最後の一段を踏み越えたときには、心臓が破裂しそうなほどに跳ね上がっていた。
「おー!めっちゃ綺麗!」
先に鳥居をくぐっていた光がこちらを振り返る。だが、その視線は俺ではなく、俺の背後に広がるパノラマへと完全に吸い寄せられていた。
釣られるようにして、俺も後ろを振り向く。
その瞬間、胸がすくような光景が世界いっぱいに広がった。
青空と白い雲のコントラストが鮮やかに映え、その中心に立つ鳥居は、まるで天に浮いているかのように錯覚させる。眼下には観音寺の街並みがミニチュアのように広がり、右手には青い瀬戸内海が、空との境界線を曖昧にしながらどこまでも溶け合っていた。
思わず「おお……」と、言葉にならない感嘆が漏れる。
「いやー、やっぱり実物見ると違うな」
そう言いながら、光はすぐそばにあったベンチへと腰掛けた。
俺も引っ張られるようにその隣に腰を下ろし、どこまでも広がる眼下の景色に、ただ視線を落とした。




