28話 決裂
28話 決裂
バリバリ、と不快な音が部屋に響くたび、頭の奥がズキズキと激しく痛んだ。
俺は夢中で、七枚全てをスケッチブックから破り取っていた。引きちぎる手の震えが止まらない。自分でも何のためにこんな暴挙に出ているのか、途中でわけが分からなくなっていた。
だけど、手を止めようとするたびに、この一週間で刻まれた記憶が濁流のように押し寄せてくる。
彼女と二人で歩いた女木島の、あの鮮やかな風景の数々。それが浮かぶのと同時に頭痛がひどくなり、俺はその痛みを誤魔化すように、さらに激しく残りのページをむしり取った。
その夜は、床一面に散らばった無残な紙切れをただ見つめたまま、一睡もすることなく夜が明けた。
——
はっと気がつくと、カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が容赦なく目を射した。
いつの間にか意識が飛んでいたらしい。雨は、もう完全に止んでいた。
鉛のように重い体を強引に起こして部屋を見渡す。床には昨日引きちぎった紙の破片が、足の踏み場もないほど散らばっていた。
喉が痛い。風邪をひいた時のように、やけに熱っぽい。
鼻が詰まっていて、呼吸をするだけで胸が苦しかった。
頭痛は治まるどころか酷くなる一方で、思考がうまくまとまらない。
おぼつかない足取りで立ち上がり、床の破片には目もくれず、中身のなくなったスケッチブックを掴んだ。それを鞄へと乱暴に詰め込む。
早く、女木島に行かなければ。
それだけが、今の俺を突き動かす強迫観念のようになって、頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
玄関のドアを開けると、昨日の豪雨が嘘だったかのような、夏の厳しい日差しが容赦なく降り注いだ。カバンの紐を確かめるように強く握りしめ、俺は重い一歩を踏み出した。
女木島の港はなぜか初めて来たような感覚がした。海はぎらつく太陽を反射して狂ったようにキラキラと光り、並ぶ建物の白い壁は、直視するだけで目が痛む。
自転車に跨って、ペダルを踏む。
細い路地に入ると、やっぱり何度も来たような感覚がして少し息が落ち着く。
俺がこの島を、彼女を、誰よりもちゃんと見て、絶対に忘れなければ、消えるなんてことにならなくて済むはずだ。
そうだ、彼女が「忘れられないために」絵を描かせていたのなら、俺が絶対に忘れなければいいだけの話だ。
彼女はただ、俺に絵を描かせることでその手段を示しただけで、最初からそうすればよかったんだ。
絵を描いて残すなんて面倒なことしなくたって、俺が全てをこの目に焼き付けて、何度でも女木島を回ればいい。
なぁ、ちゃんと見るって、そういうことだろ?
そうだ。そうすればいい。
そうすれば、きっと大丈────
「千冬。遅かったね」
神社の境内に足を踏み入れた瞬間、聞き慣れた声がした。
目の前の彼女は、いつもと変わらない様子でひらひらと手を振っていた。
「…………え…………なん、で……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
「…………どうしたの?」
いつものように、何事もなかったかのように拝殿の前に腰掛けている彼女。
──だけど、その体は、昨日よりも明らかに、さらに向こう側が透けていた。
「え、は……なんで、戻ってないんだよ」
「え?」
「なんで…………」
「……どうしたの? なに?」
怪訝そうに首を傾げる彼女の態度に、内側から激しい焦燥が湧き上がる。
「……何って、その体に決まってんだろ!」
思わず声を荒げた。その声は境内に響き渡って、木に止まっていた小鳥が飛び去った。
「……だから、昨日話したじゃん」
彼女は困ったように眉を下げた。
「いや……昨日の話なら俺が絵を描くことでお前が消えるって話だっただろ」
「……うん」
「だから! 俺は絵を描かなければいいって、そうしなければお前は消えないって、絵なんかなければ消えないって……思ったんだよ」
捲し立てながら、自分の言葉の虚しさに気がつく。
その予想は、完全に外れていた。目の前の、昨日より確実に薄くなっている彼女の輪郭が、俺の浅はかな考えを無残に否定していた。
「…………もしかして」
彼女のトーンがふっと落ちた。
「…………」
「スケッチブック、出して」
少女の声は低く、冷たかった。目は全く笑っていない。これまでに見たことのない、冷徹な表情がそこにあった。
「………………」
俺は力無く鞄を下ろしてファスナーを開けた。そして、スケッチブックを取り出した。
少女は俺が差し出すとすぐに表紙を開いた。その瞬間、彼女の目が見開かれる。ページを開いた勢いで、中に挟まっていた、破った絵の破片が何枚かひらひらと地面に落ちた。
「なに、これ……」
スケッチブックの綴じ込み部分には、これまで描いた七枚の絵が、全て乱暴に引きちぎられた跡だけが残っていた。
「俺は……君が、これで助かると思って」
「え…………?たす、かる……?」
「だって、そうだろ? 君は忘れられたくない、だから俺に絵を描かせた。だけど俺が絵を描き上げたら君が消える。なら、その絵を描かなければ──」
そこまで言って、ハッと言葉に詰まった。
一滴の涙が、少女の頬を伝って、まっさらなスケッチブックに落ちた。水彩画用のそれは、すぐに水を吸って滲んでいく。
「私、そんなこと頼んでないよ……」
「で、でもそうしなきゃ君が──」
「頼んでないって言ってるでしょ!」
耳を突き刺すような鋭い絶叫が境内に響いた。まるで世界全体の時間が止まったかのような、ひどい静寂が辺りを包み込む。
彼女は俺の顔を真っ直ぐに見つめながら、ボロボロと涙を流していた。
その瞳に宿っているのは、悲しみでも、怒りでもなかった。そのどちらとも形容できない、あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合ったような、混沌とした色だった。
頬を伝う涙は、ぽたぽたと音を立ててスケッチブックと地面の土を濡らしていく。
「……もう、帰って」
「え、いや、待ってくれ」
「帰って。取引は、もうなし。君が、破ったから」
「ちが、そんなつもりじゃ……っ」
俺はそう言いかけるが、彼女の拒絶するような瞳に射すくめられ、喉が詰まって、ひゅっという情けない息だけが漏れた。
「帰って、ください」
彼女はそう言い放つと、地面に落ちていた絵の破片を無言で拾ってスケッチブックに挟み、俺に差し出してきた。
震える手でそれを受け取ろうとするが、指先に力が入らず、バサリと地面に落としてしまう。
彼女はそれを見たのか見なかったのか、すぐに振り返って境内の奥へと去って行ってしまった。
俺はただ、小さくなっていくその背中を見つめることしかできなかった。
──帰りのフェリーは、昨日の雨の影響か波が高く、俺は初めて船酔いをした。




