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笑った女鬼の島  作者: アコウ丸


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27話 あと一枚

 俺は何度も何かを言いかけてはやめて、口を開いて閉じる。ゆっくりと少女から手を離して、置いてあったスケッチブックを手に取り、腰を下ろした。

 鞄から不透明水彩の白色を取り出してパレットの隅に乗せた。

「私はね、ずっと昔からこの島にいるんだ」

 筆先に白を含ませた瞬間、すぐ隣から囁くような声が届いた。一瞬、水を含んだ穂先がピタリと止まる。問い返したい衝動が突き上げたが、それを強引に抑え込み、再び手を動かした。尋ねてしまえば、何かが足元から崩れてしまいそうな気がしたからだ。

「いつからいるかは……もう思い出せないんだけど、ずっと昔から」

 すでに乾ききった絵の具の層の上に、極細の白い線をそっと重ねていく。

「気づいたらこの体で島を彷徨うようになってた」

 少女の視線は俺を見ていなかった。遥か遠く、雨の向こうの境界線をなぞるような目で、ぽつり、ぽつりと語り始める。

「昔は、こんなに人も来なかったんだ」

 白が浮いてしまわないよう、背景の色彩に馴染ませるように筆を引いていく。

「あるとき、山の上で洞窟を見つけたって言う人が出てきて、鬼の伝説が生まれたの」

 ほんの少しだけ白に青を混ぜた。混ざらないよう慎重に。

「それからこの島は鬼ヶ島って呼ばれるようになって、観光客が来るようになった」

 画面の中の水溜まりに、新たな波紋を一本、また一本と描き込んでいく。

「みんな、洞窟を見て、鬼ヶ島だって言って帰っていった」

 少女の声にいつものハリはなかった。ただ、雨音に溶けてしまいそうなほど静かだった。

「別に、それは嫌じゃないんだよ。むしろ嬉しい。いっぱい人が来てくれて、活気も出た」

 息を止め、一筋の直線を細く、鋭く描き込んでいく。

「けどね…………そうやって、たくさんの人が鬼ヶ島として見て帰るごとに、鬼ヶ島と呼ばれる前の記憶は薄くなっていった」

 一瞬だけ手がぶれて、線が太くなった。

「この島には鬼が出るとか、海賊が住んでたとか」

 太くなった部分の絵の具を、爪の先で掬い上げた。爪の中に冷たい感触が残る。

「そればっかりで、島の中身はあんまり見られなかった」

 手を止めて、少女を見る。

「俺に絵を描かせてたのは、それを忘れられないためか」

「うん、それもあるよ。でも、私の本当の願いは────ちゃんと見てほしいってこと」

 俺は言葉に詰まった。彼女の言う願いの意味を、必死に噛み砕こうとする。誰かに自分の存在を知ってもらい、絵という形で残してほしいということなのだろうか。だが、どうしても拭えない違和感があった。

「お前は、生きているのか?」

「うーん……生きてはないんじゃない?」

「じゃあなんなんだよ」

「多分、記憶の塊とか、未練を残した幽霊とか、そういうもの」

「……それじゃあ、なんで今消えかかってるんだよ」

「たぶん、それが私の願いだから」

 そう言って、彼女は目を細めて笑った。けれど、それはいつも俺をからかう時の、悪戯っぽい笑みではなかった。どこか諦めたような、ひどく儚い笑い方だった。

「どういう意味だよ」

 俺がそう問いかけても、彼女は何も答えず、ただ滴る雨を眺めていた。

「それより、絵、描けた?」

「…………ああ」

 俺は釈然としないまま少女にスケッチブックを手渡した。少女はそれをまじまじと眺めてから満足げに頷いた。

「うん、いいね」

 多分、どういう「いいね」なのかは薄々気づいていた。というより、この1週間の中で、彼女が俺に言ってきた言葉、何度も繰り返されたあの言葉のせいで嫌でもわかった。

「………………」

 だから、何も言えなかった。

「これで、あと一枚だね」

 そう、彼女が発した途端、胸が強く握り潰されるような感覚がした。

 あと一枚。

 あと一枚を描けば、少女の願いは叶う。

 それはつまり、取引が終わって、俺がこの島に来る都合もなくなり、何より────彼女がいなくなるということなのだろう。

「俺が描いたから消えるっていうのか」

 気づかないうちに発された声は、自分でも驚くほど震えていた。少女はその言葉を聞いて目を伏せた。

「そう、かもね」

「…………怖くないのか」

「わかんない」

「え?」

「だって、もう何年もここにいるし」

「形に残ることが、お前の願いなのか」

「んー…………わかんない」

「そればっかりだな」

 俺がそういうと、彼女は小さく笑った。

 けれど、俺は笑えなかった。

 風が吹いて、雨が運ばれて、靴が濡れた。

 雨足は来た時よりも増したように感じた。

 

——


 帰りのフェリーでも、泥を撥ねる傘をさして歩く帰路でも、激しい雨の音は止むことはなかった。

 家に辿り着き、玄関の傘立てに濡れた傘を乱暴につき刺して、自室へと向かう。湿ってずっしりと重くなった鞄を床に放り出し、中からスケッチブックを引き抜いた。

 椅子に崩れ落ちるように座り、机の上にそれを置く。

 指一本動かす気になれなかった。

 使った水筆の手入れも、肌に張り付く濡れた服を着替えることも、すべてがどうでもよかった。

 ただ、あの薄暗い神社で聞いた彼女の声だけが、頭の中で反芻し続けている。

 俺は深く、重い息を吐き出しながら、スケッチブックの表紙をめくった。

 一枚目、取引が始まった、あの展望台。

 二枚目、いつもの神社から見下ろした景色。

 三枚目、海水浴場から離れた広場で描いた海。

 四枚目、姫が眠っていると言う伝承の岩。

 五枚目、タカト山から見えた高松の景色。

 六枚目、そして今日描いた、あの激しい雨の神社。

 ページをめくる摩擦の音が響くたび、その瞬間の空気、匂い、彼女の気配が脳内に直接流れ込んでくる。

 描かれた絵のどこを探しても、彼女の姿はどこにも写っていない。

 なのに、すぐ隣で彼女が笑っているような、どうしようもない錯覚に襲われる。

 いつも俺をからかって、どんどん先に進んで行って、時折すべてを見透かしたような目をしていた彼女。

 ──七枚目。

 あと、たった一枚を描けば、約束は守られ、取引は無事に成立する。

 俺が絵を描き上げれば、彼女は祖父の絵の真実を教えてくれる。取引通りに。

 だけど、彼女は消える。

 胸の奥が、また激しく締め付けられた。呼吸が浅くなり、空気を吸い込むごとに肺が激しく痛む。

「くそっ……!」

 俺は勢いよくスケッチブックを叩きつけるように閉じた。しかし、何を思っても脳裏に焼きついたあの笑顔が張り付いて離れない。

 あと一枚。

 あと一枚。

 あと一枚。

 あと一枚──。

 狂ったように繰り返す思考に引きずられるように、気づけば、俺の手は再びスケッチブックを開いていた。

 現れたのは、最初に描いた展望台のページ。鮮やかな色彩が、目に刺さるように見える。

 指先が、その紙の端を強く、白くなるまで掴んだ。

 取引だから、俺が絵を描いて、それがあと一枚、終わったら彼女が消える。

 だったら──

「終わらなきゃいいんだろ」

 ──ビリッ

 肉を引き裂くような、鈍く乾いた破壊音が静まり返った部屋に激しく反響し、そして、雨の音に消えていった。

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