26話 雨降り
「今日は各地とも大気の状態が不安定で、全国の広範囲で雨が予想されています。」
朝の情報番組を、家のリビングで一人でぼーっと眺めながらパンを食べる。
携帯を開くと、光からメッセージが来ていた。
『絵についてなんかわかった?』
『いや、全く』
『なんでだよ!女木島通ってんだろ?』
『前言っただろ、俺が絵を描いてからじゃないと教えてくれないって』
『はぁ〜?まだ描いてんのかよ』
『筆が遅くてすみませんね』
俺はイラッとしてスマホを閉じた。それからブーっとスマホが振動して通知が来る。おそらく光だろうが、無視を決め込んだ。
いつものように画材を鞄に詰め込み、自転車の鍵を確認して家の外に出る。
その瞬間、頬に液体が飛んできて冷たいと思うが、それがすぐに雨だということに気がついた。
「あっ、そういや今日雨だった」
俺は自転車の鍵をしまい、代わりにビニール傘を傘立てから取って家を出た。
歩いて港まで行ったのは初めてだった。雨なのもあるだろうが、自転車で行くよりも十五分以上はかかった。激しい雨を弾き返す路面はズボンの裾を濡らして、ビニール傘に落ちる雨音だけが大きく聞こえた。
いつも通り、窓口で切符を買って、フェリーに乗り込む。波が荒れているため揺れるかもしれないというアナウンスが入り、俺は仕方なく甲板ではなく船内で二十分を過ごした。遠ざかる景色が見えないせいか、やけに長く感じた。
港に到着してフェリーを降りると、いつもより観光客の数が少ないように見えた。
こんな雨の日に海水浴に来る人も、わざわざ島に渡って観光する人もいないから当然か、と考えていつも自転車で通る道を歩いて行く。
昨日描いた絵を思い出しながら歩くと、意外とすぐに鳥居の下へ到着し、滝のように流れ落ちる石段を、足元に気をつけながら登る。
そして、目に入ってきたのは、誰もいない拝殿前だった。
「あれ…………雨だから今日はいないのか?」
「ちゃんといるよ」
唐突に後ろから聞き慣れた声がした。思わず振り返ろうとする。
「あ、振り返っちゃだめ」
「え?なんでだよ」
「いいから、ほら進む」
俺は背中をぐいっと押された感覚がしてよろめく。困惑しながらも拝殿の方へと近づいていく。
ある程度近づいたところで、ふっと傘に当たる雨音が止んだ。上を見上げると拝殿の屋根が雨を遮っているようだ。
「じゃあ、体ごとゆっくり振り返って」
言われるがままにゆっくりと振り返る。俺が体を回すのと同時にピッタリと背後について回っているようだ。
完全に振り向くと、激しい雨によって霞んだ鳥居が目に入る。
「……なぁ、なんで今日は姿を見せてくれないんだ?」
「んー……びじゅ?がよくないから」
「よくその言葉知ってるな」
「最近港で聞いたから」
少しだけ声のハリをあげて満足そうに答えた。
「……それで、今日も描けばいいんだよな?」
「うん、今日は雨だし、ここでいいよ」
「ここは前描いたけど?」
「雨と晴れじゃ、同じ場所も違って見えるから」
そう言われてあたりを見渡す。確かに、太陽の光が雨雲で遮られたせいで薄暗く、地面を見るとところどころに大きな水溜りを作っている。境内も見慣れない新鮮さがあった。
「たしかにそうかもな」と相槌を打って、腰を下ろす。木板は濡れてはいないものの、少し湿っているような感覚がした。
脚をピンと前に伸ばせば、たちまち濡れてしまいそうな軒下で鞄からスケッチブックを取り出す。開いたページはいつもより湿っていて柔らかく感じた。
鉛筆で軽く下書きをする。だが、今日は比較的薄く、抽象的に書いた。鳥居の輪郭、波紋が広がる水溜まり、どれもが雨の中で輪郭を不確かにしているように見えたからだ。
そして、水筆を取り出してパレットの上で色を作る。鳥居の灰色は雨で濡れていつもより暗く、境内のまばらな砂利の窪みにできた大きな水溜りは、少しだけ鳥居を反射している。
木々の緑と溶け合うような雨の空気感を出すために、あえて水の量を増やし、いつもより滲ませた。
大体描き終わった後に、余分な水分をティッシュで拭いた。あとは、少し乾かした後に、不透明水彩で白く雨の線を入れるだけだ。
ふと、そこでいつもなら横から突っ込んでくるあの声がないことに気がついた。
何の気なしに、探すように後ろを振り向いた。
真後ろには誰もいなかった。
けれど、左後ろに、見慣れた紺色のスカートと、白いオーバーシャツが目に入った。
——いや、見慣れているはずなのに、その姿は見慣れなかった。
「え…………」
「あー……バレちゃったか」
いつもとは違って、揶揄うのに失敗したように気まずそうに笑う彼女は、透けていた。
透けていたというのは比喩表現ではない。
体が実際に透けて見えた。
右の二の腕
左の太もも
首に垂れた赤みがかった髪の毛
ところどころの輪郭がぼやけて、不鮮明になり、奥の拝殿の木板や柱が見えていた。
「お前……それ……」
「びじゅがよくないって言ったでしょ」
「は…………? いや、何言ってんだよ」
「……あはは、大丈夫大丈夫、ちょっと透けてるだけで他はなんにも」
そう言って立ち上がろうとした少女は膝の力が急に抜けたようにふらついた。
「あっ、おい」
反射的に伸ばした手は少女の肩に触れた。
けれども、その肩は冷たかった。
初めてここで会った時に指切りをした、あのときの体温が嘘のように冷たかった。
「ごめんごめん、大丈夫」
「大丈夫なわけないだろ」
「……うん、あんまり大丈夫じゃないかも」
「なんで、そんな他人事なんだよ」
少女はこちらを見ずに目を伏せて、代わりに小さく口を開いた。
「ほら、絵、描くんでしょ」
先ほど置いたスケッチブックを見ると絵はすでに──────乾いていた。




